ウィンタースポーツと人間

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     オリンピックにはたいして興味がないのだけど、なんとなく、ウィンタースポーツの存在というか、たたずまい自体はいいものだなあと思う。

     ウィンタースポーツって、「なんでこんなことを始めてしまったのか度」が高めの競技が多くないだろうか。

     たとえばスキージャンプは、風吹きすさぶ極寒の中、足に板切れ2枚だけつけた全身タイツの人間が虚空へ100メートル以上もすっ飛んでいくという行動である。

     フィギュアスケートだって、たいていの人が一生のうちスイカ割りの前にしかやらないような回転を、わざわざ滑りまくる氷の上でめちゃくちゃ速く長くあまつさえジャンプしながらやる協議で、しかもその行動を「美しさ」という観点からジャッジするのである。

     意味わからなくないか。

     マラソンとかやり投げとかは、レベルアップすると生きていくうえで実益がある身体能力や技能を競うことから発展したようなイメージがあるけど、ウィンタースポーツは、寒冷地での実用品としてのそりやスキーやスケートを、命知らずなやつが「雪に閉ざされて退屈で死ぬよかマシだ」とおかしな使い方をした果てにできあがったようにしか思えない。

     なにより、その謎行動が体系化・競技化されて全世界を巻き込む一大興業となっているという事実に、ふと、ほとんど自分のいた世界と同じだけどここだけ特異なズレがある並行世界に迷い込んだような錯覚すら感じる。

     でもその、生きるうえでこれっぽっちも必要なさそうな技能を人生かけて洗練させまくる、っていう姿こそが「ザ・人類」って感じでいい。

     無駄なことだけやって生きて最終的に人類の発展に寄与したい。


    自転車に乗って、

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       電動自転車を買った。後ろに子供を乗せられるやつだ。ブルーラグあたりでかっこいい親子チャリを組んでもらおうかとも少し考えたが、住んでいるエリアがわりと激坂が多いため一瞬であきらめた。

       だが実際乗ってみて、カッコつけないで文明の力を頼ってよかったと心底思っている。

       正直、チート使ってゲームしているような気分にはなった。何しろふだんは立ちこぎで相当馬力入れて登らないといけない坂を、後ろに10キロ超えた子供を乗せたままシッティングで造作もなく登りきれてしまうわけですよ。これは自転車というより原付の部類じゃないか。

       子供も案外すんなり自転車になじんだ。最初はヘルメットをかぶるのも椅子に座るのも嫌がっていたが、いざ動き始めるとすぐに後ろからキャッキャとはしゃぐ声が聞こえた。

       

       子供といると、頭の中にある地図が切り替わる。

       自分ひとりならそこそこどこへでも好き勝手に行けるが、幼児がいるとおのずと制限がかかる。”本気で”行こうとしたら外国にでも行けるが、今書いているのは日常生活の中での行動範囲だ。

       ベビーカーを押しながら現実的に歩いて行けるのはどこまでの範囲か。とりあえずちょっと行ってみよう、と構えず動けるのはどこまでか。

       新しいところへ行くとなると、確認することが一気に増える。ベビーカーでどこまで進めるのか、エレベータはあるのか、子供と一緒に食事できる場所はあるのか、等々。

       もちろん、がんばれば、どこにでも行ける。がんばれば。でもがんばらなければ行けないところが思いのほか多い。

       そうして子連れで気軽に行ける場所の脳内地図は、どんどん近所で収縮していく。

       うちの妻は休日になるとしばしば「なんでもいいからこの区から出たい」と言ったりするのだが、子育てしていてとらわれる閉塞感は、こういう行動範囲の制限も大きいと思う。

       

       その地図を縮める柵が、電動自転車買うだけで、こうもあっさり取っ払われるとは。

       一度30分ほど歩いて行ったことのある、動物もいるような大きな公園を目的地に定めて漕ぎ出してみた。「いいとこだけど遠いから当分来ないな……」と思って実際にその後訪れなかった場所だ。

       それが、足が疲れる間もなくあっさり10分ちょっとでたどり着いてしまった。ジュース買いにコンビニ行ったくらいの感覚だ。

       なんというか、産業革命が起こったような気分である。おおげさだけど結構本気でそのくらい、文明の利器によって自分の感覚が塗り替えられたみたいだった。

       ……感動しすぎだろうか。でも感動したんすよ。

       だって、「子供連れて出かけるとかしんどい」から「子供と一緒にどこ行こう」に考えが切り替わったんですよ。これはもうパラダイムシフトといっても過言ではないですよ。

       まあ、そんなこと言いつつ、またひととおりの場所に行きつくして飽きたりするんだろうけど、しばらくは子守りをしつつ自分も楽しめるんならじゅうぶん元は取れている。

       

       結局何が言いたいかというとモダンチョキチョキズの『自転車に乗って、』は最高の名曲だということです。


      世界旅行としてのゲーム

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         年末に一念発起してPS4を購入したが、それで結局何をやっているかというと『ロマンシングサガ2』のリマスター版である。

         最新のゲームもちょいちょいやってはみたが、どうにも疲れて長続きしない。

         3Dで世界をまるごと造り出すようなゲームは、目に入ってくる情報量が多すぎて処理しきれないのだろうか。

         2Dの、さらにドット絵の、抽象化された世界にやたら落ち着くのは、自分が子供の頃にそういったゲームに親しんでいたからでもあるけど、それだけでもないように思う。

         

         ゲームをすることは旅行と同じだと考えているふしがある。

         実際の旅行はむしろ苦手だ。極度のヘタレなので強盗とかスリを警戒して全く街歩きを楽しめないし、そもそも言語が通じない空間が恐怖でしかない。ゲームとか読書で脳を亜空間に飛ばす方がよほど性に合う。

         そんなことを考えるようになったのは、たぶん小学生の頃にずっぷりハマった『ロックマン』のせいだ。

         『ロックマン』シリーズはなにより8体のボスの意匠がみんなバラバラなのが素晴らしいのだ。

         それぞれのボスが支配するステージを選んで攻略していくわけだけど、それが雪山だったり砂漠だったり工事現場だったり空中要塞だったりと色とりどりで、これはもうコンパクトな世界旅行といっても過言ではない。BGMもこれ以上ないくらい各ステージのイメージにぴったりとマッチしていて、もはやそのステージが古来からはぐくんできた民族音楽ではないかと言い切りたいくらいのものである。

         その、意匠の違うステージの移動を世界旅行ととらえる感覚は、RPGをやるようになってからさらに強まっていく。日本のRPGはほとんど旅そのものじゃなかろうか。

         その感覚を固めた主犯には『サガフロンティア』のリージョン移動が間違いなくあげられる。

         このゲームは、基本的に生物が存在できない亜空間に「リージョン」というコロニーが点在している、という世界設定で、そのリージョンは九龍城やマンハッタンや京都を模したものや、全体が巨大な刑務所やカジノになっているものなどがあり、まったく文化圏の異なる星を股にかけて旅するようなRPGだった。(通常はリージョンシップという宇宙船のような乗り物で移動するんだけど、主人公のひとりがワープ機能を使えて、その行き先のリージョン選択画面のアイコンがまたそれぞれかわいいんですよ。)

         

         でも、自分でも不思議に思ったのは、PS3で『風ノ旅ビト』をプレイした時に、これっぽっちも旅情を感じなかったことだった。

         これはマントをまとった精霊のようなキャラを操って、アンビエントっぽいBGMのなか、砂漠や地底の神殿などをフワフワと飛びながら進んでいくゲームで、戦闘やパズルなどのいかにもゲーム性の強い要素は基本的になく、ただひたすら美しい異空間のなかを移動していく。

         これこそまさに名前の通り旅するだけというか、旅行としてのゲームそのものだという気もするんだけど、なぜだろう、あっという間に飽きた。

         

         今から思うと、おそらくゲーム性が薄いからではない。

         このゲームの場合、訪れる場所が「コミュニティ」ではなかったからだろう。

         人のいない、その痕跡だけが残る廃墟のような場所を延々進むのは、美しくはあっても自分にとって旅情をかきたてる旅ではなかった。人の生活の場に入りこむことが旅行だとどうやらおれは思っているらしい。

         RPGに出てくる街などは、そのフィールドそのものがコミュニティじたいを内包していて、それにイベントを通してプレイヤーは接触する(例えば人魚の伝説が残る水辺の街を訪れて、その街の文化のコア=人魚と遭遇するイベントをこなす、など)。

         

         ただ、現実の旅行で、人の生活に入りこむことはできるのかというと、自分はあまりそういうタイプではないと思う。

         現地の人と仲良くなってそのコミュニティにゲストとして参加させてもらう、というのには度胸とコミュニケーションスキルが要るが、そのふたつは自分に大変ばっつり欠けているのだった。

         その点ゲームはいい。人の家に入りこんでタンスをあさったあげくじっと居座ったり、そののちひたすら話しかけ続けたしても何も問題ない。いくら特殊な文化圏であっても、そこに暮らす他人の生活圏に堂々と踏み込むことがあらかじめ推奨されている。

         さらに言えば、三軒茶屋を模した街の喫茶店の2階で下宿生活を送る『ペルソナ5』なんか、コミュニティどころか東京での他人の生活を疑似的に過ごすことができるゲームだったので、現実の自分が東京に住んでいるくせに東京留学してるように思えて楽しかった。プレイ後はしばらく現実に『ペルソナ5』のレイヤーが重なって、渋谷で電車を乗り換えるたびに「あーここでよく怪盗団の打ち合わせしたな」とかナチュラルに考えることが多かったくらいだ。

         

         ……あれ。3Dより2Dの方に旅情を覚える理由の話をするつもりだったような気がしたんだがなんでこんな話してるんだ。

         たぶんドットで抽象化された風景の方が、自分の脳内で勝手に立体化されて「体験」としての強度が高まるとかそんな具合じゃないかという気がするんだけど、まだよくわからない。

         まあいいや、それについてはまたいずれ考えることにしよう。


        人間からは逃げられない

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           藤栄道彦『コンシェルジュ』に、主人公らが勤めるホテルを定宿にしている漫画家のもとを、ドイツから漫画家志望の女の子が訪れる回があった。

           確かこの女の子は本当のところ、漫画をとにかく描きたいというよりは、人間関係のわずらわしさから逃れるために漫画家になろうとしていた。そんな彼女に対して常連の漫画家が、諭すようにこんなことを言うのだ。

          「人間からは逃げられないんだ」

           手元にそのコミックスがないので正確ではないのだが、この言葉はずうっと頭のどこかに引っかかっている。

           というのも、自分もわりかし、人間から逃げたいと思い続けていて、そのたびにこの言葉に呼び止められているからだ。

           

           正直なところ、人間と接するのってめんどくさすぎやしませんか。

           だって結局のところ他の人間がなにを考えているのか、なにを感じているのか、そのうえでなにを投げかけるべきなのか、根本的にはその正解はわからないわけで。

           どんな相手に対してもずうっと探り探りボールを投げてはまたキャッチするのを延々と続けないといけない。

           しかも1対1でやるとも限らない。ひたすらいろんな方向にボールを投げ、いろんな方向からのボールをキャッチし続ける。

           無限に続く原っぱで、晴れていようが雪が降ろうが、見当も力加減もぶれまくってるけど間違いなく自分に対して投げられているボールを追いかけたり、明後日の方向から自分の脳天めがけてすごい勢いで飛んでくるボールをどうにかキャッチしたりしながら、しっくりくるキャッチボール相手を追い求めたり、幸運にも見つかった相手とできるだけボールを投げかわしたりし続ける。一生。

           疲れる。とても疲れる。ボールに飽きる。ずっと足元のたんぽぽとか見てたい。

           

           そもそも自分は、日々のできごとや、それをきっかけに自分の中に沸き起こった情動を物語にしたい、というモチベーションがめちゃくちゃ薄い。

           自分の身に起こったことなんぞ可能な限り創作の糧にしてやるものかと考えている。(そもそも記憶力がひどく悪いのでネタにする以前にほとんどのことを忘れ去るのだが)

           でも、実際になにかを書こうとすると、そういった自分の情動から逃れることがものすごく難しいことだと実感する。

           

           まずプロットを立てようとすると、たいてい「人物」が「行動」してしまう。

           「人物」が「行動」するには「動機」が必要だ。動機がない、というのも一種の動機だろう。

           そんなもの、あまりに人間的すぎる。逃げたい。

           こうしてまずプロットが消え去る。

           次に、できれば「人物」も消したい。

           ひたすら風景だけを描写する、というのは手だが、それだと描写する対象を取捨選択する自分の人間性は消えない。ただそこまでのレベルにいくとまた別の話になってくるのでいったん、人間ではない別のものを登場させる、という方向で考えてみる。

           たとえば、人間的なロジックでは理解できないような存在であればよくないか。もう一切の情動とか関係なし。

           でもそこには根本的な限界がある。

           人間的なロジックでは理解できないような存在の行動ロジックをどうやって人間が組み立てて書くことができるのか?

           難しい。ただそういう物体としてそこに在る、というのならギリギリいけるかもしれない。

           個人的に、こういう存在としてパッと思い浮かぶのは、山田芳裕『度胸星』の、火星に現れる謎の多次元体・テセラックだ。あれはいい。見た目から行動から、とても「人間の認知を一段超えたところに存在しているなにか」感がビンビン伝わってくる。

           じゃあそれをどうやって作品にしよう?

           火星でススーッと動いたり拡大縮小するテセラックの様子だけを、ただカメラがひたすら追い続けている、とか。

           

           ここで問題。

           この作品は、面白いんでしょうか?

           悲しいことに、とても悲しいことに、ほぼ間違いなく「物語」としては面白くないっぽいんですよ。アートとしては面白いものになりえるかもしれないけど。

           少なくとも、『度胸星』が面白いのはその謎の存在と、個性的なキャラクターたちが対峙するからなのであって。

           人間を排除してテセラックだけずっと描き続けてたら、『度胸星』はたぶんあのような傑作たりえなかったわけで(というかそもそもヤングサンデー廃刊を待たずしてこの世から存在を抹消されていることは想像に難くない)。

           

           つまるところ、「物語」としての面白さには、どうしても「人間」が付いてきやがるんですよ。

           

           それに、これまた悲しいことに、どっちみち考えている自分は人間だし、考えて生み出そうとしている「人物」も独立した人格なんですよね。

           百歩譲って「人物」の登場を許可したとして、じゃあいざ作品を成功させるためには、その人物をみごとひとつの人格として存在させる必要がある。

           その人物がイコール自分であれ、それとも自分とは別の人間であれ、作品内に登場させるには、そいつがどういうやつなのか、考えたり実際に書いたりしてみながら、知ろうとしてみる必要がある。

           これってどう考えても、他人とのコミュニケーションなんですよね。

           他人のことを想像して把握しようとすること、それに成功したり失敗したりすること。

           頭の中のべつの原っぱで、そこにいる誰かとキャッチボールをすること。

           創作のための想像は、どうにも人間的存在とのコミュニケーションと非常に近しい。

           その存在が実在かどうかはどうでもいいことだ(そもそも自分というのは最も身近な他人のことじゃないだろうか)。


           それに、そもそもなんで自分は、人間めんどくさいいやだ逃げたいと思いながら、「物語」を求める表現形式を選んでしまったのか?

           ただ文脈や意味などもなく物体として存在しているなにかを作るような、詩や現代アート的な表現形式を選ばなかったのは?

           結局のところ、自分自身が最終的には「物語」とか、ひいては「人間」を求めてしまっているからだろう。

           その意味で、『コンシェルジュ』に出てくる漫画家が語ったことは、創作者の発言としてもものすごーく説得力があった。

           物語を求めたら人間がひっついてくるし、人間である以上物語を求めずにはいられない。

           人間からはそう簡単には逃げられないのである。


          只石博紀監督『季節の記憶(仮)』を見てきた

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             1/22〜26まで新宿のK'S Cinemaでかかっていた、只石博紀監督『季節の記憶(仮)』という映画を最終日滑りこみで見に行ってきた。

            http://www.kisetsunokiokukari.com/
             いやあ、久しぶりにブログを立ち上げてしまうくらいに、異常な映画体験だったんですよこれが。

             もう本当に、見ている最中ずうっと、「これはなんなんだろう?」と頭が回転しっぱなしだった。
             自分はあまり映画を多く見ている方ではないのだけど、逆にそういう素人だからこそか、この問いが浮かんで離れなかった。
             今見ているこれは、映画なんだろうか?
             そしてその問いは、映画ってなんだろう、というさらに大きな問いを必然的に引き連れてくる。

             

             この「映画」の異常さをわかってもらうには、まずどんな手法で撮られたのかを説明するのが手っ取り早い。
             タイトルにもあるように、夏・秋・冬・春の順に、それぞれの季節に撮った映像を各30分のチャプターとしてまとめた作品なのだけど、各篇とも共通の手法で撮影されている。
            1.撮影者は出演者。専属のカメラマンは存在しない。
            2.ノーファインダー。撮影中、ファインダーを一切覗かない。かつ、「カメラを撮影機でなく『モノ』という意識で扱う」というルール。
            3.30分ノーカット。
             そのうえ、各篇とも目立ってフィクショナルなプロットは存在しない。

             基本的には、知り合いらしい数人が集まってうだうだと歩いたり駄弁ったりしているだけ。

             なんでもない一日にたまたま撮影したホームビデオ、のように見える。
             この縛りが重なるとどういう映像があらわれるのか?
             見ていただいた方にはわかると思うけど、観客に(精神的に、というよりはもはや身体的に)かなりの負荷を強いる映像ができあがる。
             なにしろ出演者がかわるがわるカメラを持ってはバトンタッチするように撮影しているから、カメラは劇中の大部分で移動している。
            「モノ」としてカメラを扱うルールがあるので、撮影者はそれぞれ手持ちのカバンみたいにぶらぶらカメラを持って歩く。
             ファインダーを覗けないから、ぶらぶら持ってるカメラの映像がブレようが、フォーカスが対象からズレようが確認しようがないまま撮影は進む。
             そのうえノーカット。それらのブレやズレは一切消されることなくスクリーンに映される。
             結果として、観客は「ひたすら手ブレし続け、アングルがキマッていない、見知らぬ他人のホームビデオのようなもの」を30分×4セット見続けることになるわけだ。
             音声もカメラマイクのみで収録されているので、ゴオゴオとマイクを震わす風の音や車の走行音、カメラが地面に無造作に置かれるゴツッという音が、ありのまま、それなりに暴力的に耳へ飛びこんでくる。
             たまたま劇場に入る前後に、ときおり発生する神経痛のかなりひどいやつに襲われたせいもあって、最初の夏篇はカメラ酔いと激痛と混乱にさいなまれながら見る羽目となった。

             映画を見てる最中に「死にそうだ」と思ったのは、大学時代に高熱を出してるくせにクストリッツァ「アンダーグラウンド」を見てしまった時以来である。

             

             でも、結局2時間しっかりこの映像を見続け、終わったあとは只石監督に質問さえして、謎の充実感にとらわれながら帰り、いまこんなブログを1年ぶりに書いている。

             この作品の持っているなにかが、確実に自分を駆り立てている。それはなんだろう。

             

             最初の問いに戻ろう。
            「今見ているこれは、映画なんだろうか?」
             この映画には、あらかじめ「映画」が備えているものと、自分が暗黙のうちに思いこんでいた要素がことごとく欠けている。
             例えば演技、プロット。

             さきほどホームビデオと称したが、出演者たちの様子には、いかにも演技らしいドラマチックさはさっぱりない。

             ただ単に夏の河川敷でピクニックしながら駄弁っていたり、友達と飯を食いに行く車の中で駄弁っていたり、とにかく「知らない誰かのただの一日」に見える。

             冬篇は若干の例外だが、起承転結に類するプロットの転換もほぼ存在しないに等しい。
             例えば編集。

             ノーカットの時点で編集されていない、と考えるのは安易かもしれないが、各篇の30分間に限ってはおそらく一切の編集がなされていない。

             撮られたありのままの映像がごろんと提示されているように見える。
             例えばカメラフォーカス。

             ふだん見る映画では、登場人物や背景など、「監督やカメラマンが映そうと思っているもの」がちゃんと映っている。

             この作品では、それがほとんどちゃんと映っていない。話し相手の顔でなく下半身が延々映っていたりする。
             ノーファインダーということは、撮影者もしくはそれを指示する監督は「これを撮ろう」という意志を示すことはできるが、ほぼ必然的にそれを撮ることには失敗する、ということだ。
             そしてノーカットということは、被写体から被写体へカメラが移動する際に、通常ならカットされるその移動行程がそのまま映し出されるということだ。
             あえて乱暴に言ってしまえば、この映画はほぼ全篇にわたって、カメラの「移動」と「失敗」で構成されているということになる。

             一般的な映画が、(作品として成功しているかは別として)撮影に「成功」した映像のみで組み立てられているのに対して、『季節の記憶(仮)』はそれ以外の「失敗した」映像によって組み立てられた作品と思える。

             などと書くと批判しているように思われるかもしれないが、自分はむしろその「失敗している映像」だけで構成されていることこそが、この作品を成立させているキーじゃないかと感じている。

             この作品が語りたかったことは、おそらくその「失敗している映像」を通してのみ明らかにされる質のものではないか。

             

             丸というかたちを描き出すときに、どういうやり方があり得るだろうか。
             いちばん簡単なのは、丸というかたち自体を○と線で書いてしまうことだ。もしくは、ぐるぐると塗りつぶして最終的にその輪郭が●となる、というやり方もある。
             ただ、描くべき紙の、丸以外のすべてを塗りつぶして、最後に残った部分が結果的に○のかたちとなっている、というやり方も可能なはずだ。
             「それ以外」を描くことで「それ」を浮かび上がらせる。

             『季節の記憶(仮)』は、「映画以外」を描くことで「映画」を浮かび上がらせるような作品なんだと、自分には思えてならない。

             

             もうひとつ、不思議に思ったところがある。
             この映画はいったい誰の作品なのだろうか?
             作ろうと思い立って実行した只石監督の作品、とするのが普通だろう。

             だが、この作品に脚本はない。

             監督は出演者=撮影者におおまかな会話の流れとカメラの動きなどを指示するのみで、あとはそのまま撮影者にゆだねてワンテイクで撮ったのだという。

             ではこの作品は「只石監督の作品」であると言い切れるのだろうか?

             彼の意志はどこまでこの作品に通底しているのだろうか?

             そもそもそれ以前に、映画は監督の作品であると自明のことのように言ってしまって本当にいいのだろうか?
             もしくは、ノーカットで撮影した出演者たちがこの映画を作っている、とも考えられる。

             スタッフロールやタイトルコールを除けば、この作品を構成している映像は彼らが出演しながら撮影した30分ずつのノーカット素材、それだけだ。

             撮影するものとされるもの、その両方を兼ねている彼らこそが、この作品の創作にあたって最も大きなウェイトを占めているのではないか。

             でも、彼らの作品、と言ってしまうことへの違和感がどうにもぬぐえない。

             この映画を形作っている意志のようなもの、それの源泉はなんだろう。
             残る容疑者はふたつ思い当たる。
             この作品で数少ない、作為的な移動を行いつつ、ノーファインダーの手法によって偶然をもはらんだ「カメラ」。
             もしくはその、監督と撮影者の意図を超えてこの映像をカメラに残させた「偶然」そのもの。

             でもそこまで思い至ると、ひるがえってそれが現れるようにこの手法を採用した只石監督の意志こそがこの作品に輪郭を与えているんだろうか、という気がしてくる。
             しかしそこからまた思考のループが始まる。
             推理小説に出てくる探偵のようにぐるぐる考えてしまう。
             この『季節の記憶(仮)』という作品の「犯人」は誰なのか?

             もちろん、全員が共犯者だろう。とはいえ主犯はきっといるはずだ。映画を映画たらしめる犯人が。

             それを考えることによって、無謬の存在だと思われた映画そのものの化けの皮がはがされていく。

             

             いや、それ以前に。

             この作品が雄弁に「映画とは何か」を語っているとして。
             この作品自体は、果たして「映画」であると言えるんだろうか?

             「映画以外」であるからには、やっぱり「映画」じゃないんだろうか?
             確かに鑑賞中、これまでに見てきた映画が、どんなに苛烈な内容だったりグロテスクなゴア描写であったりしても、いかに観客に対して優しくサービス精神にあふれていたかを、体で思い知らされた。

             映画を見ているとき、自分はこれまでずっと、びっくりさせられはするがレールを外れることはないアトラクションのシートで、お客様として安全にもてなされていたわけだ。

             まずこの作品が「映画」からはぎ取ったのは、映画が見に来る観客に対しておのずと備えているホスピタリティと言えるかもしれない。
             もしくは、観客の「観客ぶり」とでも言うべきか。

             この作品を見るには、出されたものをただ楽しく見てああ面白かった帰ろう、では済まされない。もてなすのではなく、揺さぶりをかけてくる。

             映画の観客というよりむしろ、生の自然に対する観察者のようなスタンスで映像を見ることを強いてくるのだ。

             

             でもなんだか、自分はどうにも、この作品がとても「映画」であるような気がしてならない。
             上映後、只石監督と少し話をさせていただいたのだけど、そこで彼は 「この映像をもしYouTubeにアップしたとしたら、それこそホームビデオと思われるかもしれない」という話をしつつ、一方でこの映像をどこに出すかの例としてデュシャンの『泉』に言及した。
             ありふれたものが、置かれる場所と、置く人物の意図によって、本来の機能とは異なる意味と文脈を備え始める。

             それはもちろん映画でも例外ではない。
             そこで流された映像を映画たらしめる場所はどこだろうか。
             身も蓋もないけれど、それの最たるものは映画館だろう。
             いそいそと切符を買って、同じものを見に来た知らない人たちとロビーで会話もせずにそわそわと他作品のチラシをめくる。

             体が沈みこみそうな椅子に座って、赤い空間で真っ黒いスクリーンを見つめながら、あたりが暗くなるのを待つ。
             いよいよ照明が落ち、視界の注意力のリソースすべてがスクリーンに凝縮され、周りの空間が音響によってのみ認識されるような、五感のいびつなイコライジングが施されるあの場所。
             そこで僕はあの「映画以外でできた映画」を見たのだ。
             それが最も異常で鮮烈な「映画」体験でなくて、いったいなんだというのだろう?

             

             ただ、もう一回見るかと言われたら、正直少し躊躇する。

             臓器移植を行った際、移植者と提供された臓器の間でしばしば拒絶反応が起きるという。

             それは他人の記憶を移植されたとしても同様じゃないだろうか。

             この映画を頭の中に移植されて思ったのは、「他人の30分を生きるのはなんとしんどいことだろうか」ということだった。

             そのしんどさはとりもなおさず、この『季節の記憶(仮)』が、たとえまがいものであろうと誰かの季節の記憶として機能したことのあらわれでもあるのだろうけど。


            自選短歌30首(2016年5月〜12月)

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              あけましておめでとうございます。こちらではおひさしぶりです。

               

              結局昨年はこれっぽっちも小説を書けなかったけど、どうにか短歌は平均一日一首ペースを守れたのがせめてもの救い。

              プライベートが激変の年だったので、まだマシだったと考えることにします。

              んで、前に自選をまとめたのが5月くらいだったんで、それ以降のもので30首をまた選抜してみました。

              うまくなったりはしてませんが、ご笑覧ください。

               


               

              ぼくじゃなくあなたの許可を得たらしくすこし早めに夏がきやがる

               

              すきなだけねてかねもちになりたいしごはんをいっぱいたべてやせたい
               

              鮮紅のクリアしたじき落としたろもうことばたち隠せやしない

               

              なあ弾平 元気か仕事たいへんか今でもたまにドッジやるのか

               

              人生と関係のないスピードで今年さいしょのひやむぎ曲がる

               

              クレタ人でさえも舌を噛むような最高速の嘘をつこうぜ

               

              方舟がいくつも堕ちた森へゆくじぶんではないなにかになりに

               

              空なんてまいにち空にあるくせにまたその写真見てるのあなた

               

              なにもかも忘れられない人生をおくれたらもう歌はいらない

               

              電話帳消してしまおうあのひとも日本文化センターのかなた
               

              つり革にはじめて指を届かせた夏のかかとのしたの真空

               

              もう一本あとの電車にしませんかゴドーはふたりで待つものだから

               

              さあみんなきょうは選挙だ一刻も早くこの世はわんにゃんパラダイスになるべき

               

              明日にはやぶってしまうメモ書きのような話をたくさんしよう

               

              地獄にはとてもおいしい雲丹がありたまに責め苦に使われもする
               

              胃のなかにテトラポッドをつめこんで酒のしぶきがわたしの真夏

               

              わたパチをいっきに食べて目を閉じる いまがほんとの世紀末かよ
               

              実直に暮らすドッペルゲンガーとはげましあって三日後に死ぬ
               

              流星が乗り換え待ちをしてる間に伝えきれるといいのだけれど
               

              駅構内ハニーズバーの右手にて塩の柱を展示中です
               

              人間は生まれて死んで忙しい きみたちはあの夕焼けを見たか
               

              住人の消えた団地のどこかからスローロリスがおれを見ている

               

              留年が決まりかけてる学生のとろりとゆれるまどろみを、いま
               

              フロリダで人食いワニがきっちりと人を食べおえたという記事だ

               

              いまレジにキムチをひとつ出すとこで家に着いたらビールを飲むの

               

              めきめきとなるべく音をたてながら実力などをつけていきたい
               

              バファリンのあと半分はくやしさと三点リーダで出来ていてくれ

               

              ただでさえ水がこぼれるこの朝に世界最初のコーヒーを飲む

               

              伸びすぎた爪の白さであの森の帰りの道を照らした かつて
               

              矢印のまま凍りつく流星をまだ離したがらないこめかみ

               


              『シン・ゴジラ』を観に行ってきたよ

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                『パシフィック・リム』とか『マッドマックス 怒りのデス・ロード』とか、観測範囲で異常に盛り上がってるので義務感に駆られて観てみたらめっぽう面白かった、っていう映画がたまにある。
                 で、ここ一週間くらいタイムラインで、『シン・ゴジラ』がその状態にあった。
                 ただ自分はゴジラのことをよく知らない。シリーズも『ゴジラvsビオランテ』を公開当時に観ただけで、それも観たという事実を覚えているだけなので小学校だった自分はピンとこなかったらしい。
                 そもそも特撮をまったくと言っていいほど通過しておらず、ゴジラという存在が持つ重みや伊福部昭の偉大さなども、肌感覚としてはわからない。
                 そんな人間がうっかり観に行ってしまったわけですが。
                 が。
                 これがもう最高に面白かったんですよ……。正直ちょっと泣いちゃいましたよ……。
                 観おわって家に帰ってから矢も楯もたまらず感想を書きはじめ、さっきようやく書き終わりました。
                 以下、ネタバレ全開ですので観てない人は絶対に読まない方がいいです。

                続きを読む >>

                外野の短歌中継:第4回 ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。

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                   この連載もどきをダシに短歌を読む/詠む力を鍛えていこうというのが最初の目的だったのだが、正直なところ詠む方にはビタいちフィードバックできていないような気がしている。
                   好きな短歌がどう作り上げられているかを分析する、ってところまではまだいいが、それを自分なりに作歌へ応用できるかというと、やはりそれはまた違う話のようだ。
                   真似をするにも技術がいる。使ってる言葉を表層的に真似るだけならまだしも、構造までとなるとなおさらだ。
                   そんなことをぼんやり考えていたので、今回は下手に真似をすると大やけどを負う歌にしてみよう。

                   

                   ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。/穂村弘(『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』所収)

                   

                   ああ、何度読んでも真似したくなる。これっぽい文体でやってみたくなる。(正直言うとちょっとだけやってみたこともある。結果は聞かないでいただきたい。)
                   これっぽい文体ってなんだと言われるとうまく説明できないのだが、"生身の人間が発しないタイプの言語感覚"という感じだろうか。ふだん使う言葉の延長線上にない、別の線上の言語感覚。
                   もしくは"何かに憑依されたような文体"と言った方が近いかもしれない。ことにこの歌の場合は。
                   このブログを読んでいるような奇特な方には今さら必要ないかもしれないが、一応説明を。
                   『手紙魔まみ〜』は、"ほむほむ"こと穂村弘に少女"まみ"が午前午後各一枚ペースでひたすら送りまくった、ブッ飛んだファンレターをもとにほむほむが練り上げた歌集、という体の一冊である。
                   つまりこの歌は、"まみ"の文体が穂村弘に憑依したことで生まれたもので、穂村弘という自我100%で作られた歌ではないはずだ。
                   ちなみにまみのモデルは同じく歌人であり小説家の雪舟えまだそうだ。さすがまみだけあって、彼女の歌もたいがいとんでもないことになっている。実際にこの人から手紙が送られまくってくるようなことがあったら、こんな短歌、こんな本ができてしまうのもうなずける。

                   

                   著書『短歌の友人』『短歌という爆弾』などを読んだ限りでは、穂村は短歌の"私"性、一人称性についてかなり自覚的だ。その人が自分に誰かを憑依させて歌を作る、という時点で、間違いなく何か新しい狙いがあったはずだ。
                   "私"に根差していない短歌といえば、例えば寺山修司の実際は生きているのに歌の中で死んだことにされてる家族だとか、平井弘の存在しない兄弟といった、自分のルーツを虚構化する手法がまず思い浮かんだ。
                   でも穂村が『手紙魔まみ』でやったことは、それとまた次元が異なる。
                   ルーツを虚構化するというのは、結局のところ"私"という土壌に植える植物の種類を変えるようなもので、土壌自体が別物に変わるわけではないし、むしろその土壌を強調する作用の方が強いかもしれない。一方、『手紙魔まみ』はそもそも"私"の土壌に生えていた作物を別の畑に植えなおした感がある。
                   あえて乱暴に言ってしまうと、自分を自分ではない何かへ作りかえることへの欲望を、どうにも読みとってしまうのである。

                   

                   この歌は、その欲望が非常にねじれた形で透けて見える一首だと勝手に思っている。
                   山田航『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』に、この歌の一首評が掲載されている。自分なりにこの歌の特徴を考える上でのスタート地点が、だいたいこの評で既に分析されていたので、まず前提として勝手ながらまとめておきたい。(そしてこの本もぜひ読んでいただきたい。)
                   峺るものすべてに語りかけたい」という気持ちが表現されているが、穂村の《サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい》という歌と同様に、誰にも関心を持たれないようなものに自分の気持ちをぶちまけたいという心情が「カップヌードルの海老たち」に込められている
                  語りかける対象がどんどん縮小し、具体的になっていくのに伴い、「まみ」の精神も明晰になっていく
                  「陰」の性質を持つ、呼びかけても返事をしてもらえないものばかりに話しかけている

                   

                   生きていて、夜とか、静かな霜柱とか、カップヌードルの海老たちにハローと挨拶することがあるだろうか。基本的にない。リアクションが返ってこないものに話しかけても己のわびしさがしんしんと身に沁みるばかりだ。
                   たぶんこの語り手はひとりぼっちだ。隣にだれかがいてくれる者が、夜や静かな霜柱やカップヌードルの海老たちに挨拶する必要はないし、やったら隣にいるだれかがそれなりに引くのが目に見える。
                   だいいち相手は夜だ。夜に挨拶するならハローではなくグッドイブニングではないだろうか。
                   でもハローなのである。同じく『陰の性質を持つ』、「静かな霜柱」にも「カップヌードルの海老たち」(これは言い方を変えれば海老の死体だ)にも、ハローなのである。
                   非生物に話しかける孤独と対照的に、この歌を「ハロー」の強烈な肯定感が包んでいる。


                   なんでこの人はこんなにうきうきと非生物に話しかけているのだろう。人間と話したくはないのだろうか。

                   《サバンナの〜》も上記の指摘の通り、非生物に話しかける歌である。生き物からひり出された廃棄物に、誰にも言えない自分の感情を吐露しているこの語り手の孤独は、夜と霜柱と海老に話しかける孤独と非常に近い距離にある。
                   反応が返ってこない相手にしかぶつけられない感情、というのは確かに存在する。
                   言葉というのは例えば小石のようなもので、それがわかる相手に対してはまるで池に投げ込んだように波紋となって広がる。場合によっては相手に傷を負わせることだってある。
                   非生物に話しかけるというのは、その小石をただコンクリートに向かって放るようなものだ。
                   コンクリートは投げられた前でも後でもその状態を少しも変えないままそこにあり、小石はただころころと転がって止まるだけに終わる。
                   でも、その放られた小石は、誰も傷つけなかったのだ。
                   どうしても感情を何かにぶつけたいときがあって、でもそのぶつけられた対象が全く変化せず泰然とたたずんでいる。そのことに救われることは確実にあると思う。
                   非生物に語りかけたい欲求、というのは行き場のない心がはけ口を求めた結果でもあるわけだ。

                   

                   山田航はこの呼びかけを「次第に明晰になっていく自分への恐怖を感じながらも、わかってくれる誰かを求めて呼びかけ続ける。それは、都市社会においてコミュニケーションを希求する孤独の表象」ととらえている。
                   が、自分の印象では、『手紙魔まみ』の語り手の加速する視野狭窄はポジティブな心象の表れじゃないかと感じた。
                   大きなものから小さなものまですべてを包みこむ慈愛の射程の大きさが示され、恋する相手のことしか見えなくなるような視野狭窄が世界を対象にしたものへとスライドしたような感じだ。
                   いずれにせよこれは、『手紙魔まみ』というフォーマット、"まみ"という人格がほむほむにインストールされたことによる効果だろう。
                   結果としてこの歌には、行き場のない感情を非生物に投げかけているくせに、その感情がやたらポジティブ、という不思議なねじれが生じている。
                   このねじれは、"私"のねじれでもある。
                   ねじれた、というよりはかなり主体的にねじった、という印象の方が強い。
                   先に、自分を自分ではない何かへ作りかえることへの欲望、と書いたのはこの点だ。
                   この歌は、詠み始めた穂村弘=ほむほむが推敲途中で人格をまみに書き換えられたような歌なのだ。この歌の肯定感、多幸感は、まみのモデルである雪舟えまの短歌にも通じる。
                   なぜ、穂村弘はこういうことをしたんだろうか。
                   そもそもそういうことができる時点ですごいし、短歌における"私"をこういうかたちで別人格としてフィクション化することで、一連の短歌は間違いなく異形の作品として残り続けることになったと思う。
                   でもそこにあった新しい狙いはなんだったのか。
                   正直言うとわからない。
                   ただ、個人的には、短歌の"私"性とフィクションの関係において、「ああ、こういうこともやっちゃっていいんだ」と、妙にほっとしたのだった。

                   

                   もともと自分は小説を書いていて、読書傾向も小説に偏っているので、最初に短歌に触れたときは「なんでこんなにみんな、作品に作者の人生を反映することが当たり前だと思っているんだろう?」ということが疑問だった。
                   実際に自分でも作歌するようになってから、短歌は否が応にもその中に自分が立ち現れてしまうことが多い、というよりは実人生を反映させることと相性がいい表現形式であるということは実感としてわかってきた。が、なぜ短歌はもっとフィクションであってはいけないのか、という疑問は未だに消えていない。
                   短歌は、虚構性を取りこむ動機の在り方が、門外漢からするとかなり厳しいように見える。
                   最近でも、といっても2年前だが、石井僚一が父の死をモチーフにした連作で短歌研究新人賞を受賞してから、実際に亡くなっていたのは父ではなく祖父であり、祖父を看取る父の心情と、自分自身の父への思いを重ねて詠んだと明かされて論議を呼んでいた。
                  (この件については、東郷雄二、鈴木ちはねの記事と、加藤治郎・石川美南の対談が詳しく、面白く、勉強になった。肉親の死を歌う挽歌の重みを、これらの記事を読むことで自分もようやく実感した。
                  http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/tanka/tanka/kanran157.html
                  http://suzuchiu.hatenablog.jp/entry/2014/11/05/033006
                  http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/culture_news/CK2014112602000308.html

                   

                   詠まれたことが事実ではないとわかったら価値がなくなるものであれば、批判を受けても不思議はない。石井僚一の受賞作も、予備知識なしでは父の死というモチーフが事実であると受け取られやすいつくりになっていたのも確かだとは思う。
                   でも根本的に、(特定のモチーフの)短歌だと、なぜ事実ではないとわかったら価値が減じるととらえられるのだろう。
                   ノンフィクションと銘打った本が実際は作者の創作だったらそれは批判されてしかるべきだが、では短歌はノンフィクションなのだろうか? 歌うモチーフによってはそうなってしまう、ということなのだろうか?
                   祖父が亡くなったときの父に成り代わって歌を詠むことと、奇妙なファンレターを送ってくる女の子に成り代わって歌を詠むことの間に、本質的な違いはあるのだろうか?
                   短歌は真実を歌わねばならない、というのは確かだ。それは芸術全般においてそうだろう。
                   だが嘘が、事実ではなくとも誰かにとっての真実であることは往々にしてある。
                   短歌は"嘘"であってはいけないのか。そもそも短歌は本当に"嘘"ではないのか。
                   この虚構性のラインを、自分はまだ見定められずにいる。

                   

                   この連載もどきの本来の趣旨通り、外野で素人のおっさんがヤジを飛ばしてるような文章になってきてだんだん収拾がつかなくなってきたので、この辺で。
                   こうは書いてきたけれど、小説みたいな短歌ばっかり増えたらつまらないだろうな、というのは薄々感じる。虚構に甘えてはいけない表現形式であるのは間違いない。
                   でも短歌という制限は、もっと独自の虚構を生み出せるんじゃないだろうか、とも感じる。
                   ならば『手紙魔まみ』は、やはり避けては通れないメルクマールじゃないだろうか。
                   冒頭でこの歌を「下手に真似をすると大やけどを負う」と書いた時点ではあまり意識していなかったのだが、短歌としての強度を保ったうえでこの次元の虚構性を実現するには、並じゃないセンスと技術が必要になる。
                   ただこういう虚構のたくらみに満ちた短歌も、自分が知らないだけで色々あるのだろうし、もっと読んでいきたいところである。


                  外野の短歌中継:第3回 あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

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                     まず、ある写真の話からはじめようと思う。


                     日射しを弾く波を遠景に、撮られていることなど知らないまま、ふたりだけの花札遊びを続ける夏の中の男女。
                     写真家・細江英公が、由比ヶ浜で花札に興じる澁澤龍彦と矢川澄子をとらえた一枚である。
                     1965年に撮られた写真だそうだ。この仲睦まじいふたりは、約3年後に破局を迎えることとなる。
                     この写真がとても好きだ。自分はふたりの関係がどうなっていったか、その顛末をあまり詳しくは知らないが、もう永遠に失われた一瞬のまぶしさに、思わず胸を打たれる。
                     今回扱うのは、この写真にキャプションとして添えたいくらいの一首だ。

                    あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ / 小野茂樹(『羊雲離散』所収)

                     これを読んであの写真を連想したのは、もちろん過ぎ去って戻らないふたりの「あの夏」という共通要素はあるのだけど、「数かぎりなきそしてまたたつた一つ」という表現が、とても写真的なせいでもある。
                     人生が、たとえば無限のページがずっとめくられ続けるパラパラ漫画のようなものだとしよう。
                     言い換えれば、われわれの生きる時間はすべて瞬間の積み重なりでできている。
                     写真はその一瞬、そのページをぺりっと一枚切り取ることに近い。
                     短歌もそうじゃないだろうか。少なくともこの一首についてはそう思える。

                     では、この歌(とあの写真)における、“瞬間”のどういう切り取り方がそう思わせるんだろうか。
                     まず歌の方から見ていくと、最終的に「表情」に至るまでの絞りこみ方がとにかく素敵だ。
                     小野茂樹が無限の瞬間の山から、まずがっさりと「あの夏」をひっぱり出す。
                     この時点で半分勝ったようなもんである。「あの夏」は、たいてい誰にとっても「あの夏」だ。それは読者の記憶に積み重なったおびただしい数の瞬間のうち、遠くまぶしい季節のひと山を指す。
                     だが、無限の中から取り出したひと山は、はたして有限なのだろうか。
                     小野茂樹は即座にその答えを出す。
                     取り出した「あの夏」の瞬間のひと山が、すでに「数かぎりな」いことを示すのだ。
                     ∞を割り算しても答えは∞になるのと似ているだろうか。
                     有限なはずの「あの夏」が瞬時に無限という姿をあらわすのである。

                     そもそも無限、永遠という感覚と一番相性がいい季節は夏だと思う。
                     春と秋は、夏と冬をむすぶ変化の過程という性質がもともと強いせいか、あまり永遠という時間感覚と仲がいい印象はない。永遠の春も永遠の秋も、じつに暮らしやすくて素敵なもんだと思うが、そこにその季節の美しさはあるだろうか。例えば桜も紅葉も、永遠にあるからではなく散りゆくことにその美しさは支えられているんじゃないか。
                     永遠の冬はどうだろう。なんだか一気に、核戦争か隕石で世界が崩壊した後っていう類のディストピアSFめいてくる。人類は9割以上が死に絶えて数少ない生き残りは地下シェルターで暮らしている。寒い。つらい。食糧がない。(場合によっては詩情はあるが。)
                     それとくらべて永遠の夏だ。Endless Summerだ。もうその組み合わせ自体が、とめどない憧憬とセンチメントを生み出す魔法の結合じゃないか。それに、繰り返しに近いが永遠の夏として続く夏を思い浮かべろと言われたら、たいてい誰にとってもそれは「あの夏」になる。

                     だが、ただ永遠の夏をうたった"だけの"歌だったら、陳腐な凡作止まりだったんじゃないか、とも思う。
                     この歌は、人のセンチメントにほぼ自動的に訴えかける、そんな強力なモチーフに依存するだけでは終わらない。
                     まず「そしてまたたつた一つの」という第三・四句が、ありふれた夏のイメージから脱する、同時にいっそう極端にブーストする原動力となっている。
                     ここまで限定から見出される無限の話をしてきたが、この第四句で再び、無限からの限定の動きがあらわれる。しかも今度は、「たつた一つの表情」という最上級の限定だ。
                     人の顔はひとつなわけで、人が一度に浮かべられる表情はひとつだけのはずだ。でもこの歌のなかでは、「そしてまた」という第三句によって、「数かぎりなき」という永遠と「たつた一つの」という瞬間が、同時に存在していることになる。
                     本来なら相反するものである永遠と瞬間が、同時に存在しえる時間とは、いつなのか。「あの夏」である。
                     自分は量子力学に疎いので非常にいい加減な知識しかないが、シュレディンガーの猫という有名な思考実験がある。ミクロな粒子の発生を引き金にガスが発生する箱の中に入れられた猫は、観測されるまで生きた状態と死んだ状態が"重なり合って"いるのでは、というものだ。
                     この歌を読むとそれを思い出す。この「表情」はシュレディンガーの猫だ。
                     「数かぎりなき」そしてまた「たった一つ」という状態が重なり合っているのは、「あの夏」という、もう閉じられた箱の中だ。
                     あまりにロマンチックではないか。

                     この歌の、文字通り最後のキモが「せよ」だと思う。
                     なぜ命令形なのだろうか。
                     まずひとつには、その「表情」をする主体が語り手自身ではなく、他の誰かの表情であることを示すためだろう。
                     語り手が、数かぎりなくその表情を見た"誰か"だ。
                     でも、それなら「見せて」などと懇願するかたちや、「見たい」などの願望のかたちもありえただろう。
                     なのになぜ命令形を、小野はあえて選んだのだろうか。
                     自分にはどうにも、そこに小野の強い意志が反映されているように思える。「あの夏」という箱を開こう、という意志が。
                     先ほど、「せよ」は"誰か"に対する命令という意味を含む旨書いたが、それは厳密に言うと違うかもしれない。
                     封じられていた過去の記憶を、録画映像のように再生せよと自らに言い聞かせているようにも感じるのだ。
                     「表情」は"誰か"の表情だが、その表情を「あの夏」のなかで再生させられるのは、ひょっとしたら語り手自身だけなのではないか。
                     「せよ」という命令は、自分にも向けられていたのではないか。
                     それはすなわち、記憶の中の「あの夏」という箱を開く、ということへのためらいと意志のあらわれでもある。
                     箱を開いて中を観測した瞬間に確率は収束し、猫が生きているか死んでいるかが確定する。
                     ぼんやりとしていた記憶の中の、"誰か"の姿をよりはっきりと観測することも、それと同じことだろう。
                     確定してしまうことへの恐れと、それでもまたあの「表情」を見たいという強い憧憬。
                     永遠と瞬間の往復、そしてこのあえての「せよ」に含まれる揺らぎに、強烈な夏の輝きを見た。

                     長くなったが、冒頭の写真に戻ろう。
                     この写真が美しい理由はいくつもあるが、自分の思うところとしてはこれだ。
                     矢川澄子の顔が隠れていることだ。
                     どんな表情をしていたのか、写真を見ているわれわれにはもう確かめられない。
                     それを知っているのは、このとき彼女の前にいた澁澤龍彦だけ。
                     矢川も、その澁澤も、もうこの世にはいない。
                     この写真という、箱だけがわれわれの前にある。
                     「あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情」が入ったまま、永遠に開かれることのない箱が。

                    現時点での自選短歌30首

                    0
                      今年頭から短歌を詠み始めて、Twitterに放流した数が気づけば200首を超えた。
                      決して早いペースとは言えないが、飽きっぽい自分にしてはそれなりにきちんと続いている。
                      そのログは、ツイログの短歌タグでまとめているのだけど、さすがにさかのぼるのが億劫になってきた。
                       http://twilog.org/thunderheadhour/hashtags-%E7%9F%AD%E6%AD%8C
                      というわけで、以下30首が現時点での選抜メンバーです。ご笑覧ください。
                       


                      今ちょっと気づいたんだがおれたちはペットショップの売れ残りでは

                      この街にミノタウロスを放ちたい迷ってることばれないように

                      洗剤のCMの皿のすみっこの数粒の菌のようないいわけ

                      死を恐れセックスをやめたぼくたちの骨のかわりに糸をください

                      いいくにをつくらなくてもよいのだと鎌倉幕府のデータが消える

                      夜があけてきっと誰もが歯をみがくおとぎ話のめでたしのさき

                      空をゆくあなたの影に轢かれたと気づかないまま海辺の街は

                      ふたりして日々をつらねたある朝にきっと新たな動詞をつくる

                      もうだれも思い出さない平面で今もほほえむ美少女と風

                      とりいそぎタイムカードは押したから猫のあくびのまねしていいよ

                      母子像は背後をとられているなどと知らないままに服がつるつる

                      たそがれにのたれ死んでる手袋がまねようのない呪印を結ぶ

                      水中の万年筆のペン先のあおくゆらめくほどけゆくいま

                      日暮里の駅に金魚の池がありまたおにぎりのごみが浮いてる

                      ショッピングモールのゲームセンターでたしかにぼくは海鳴りを聞いた

                      とんかつのように素敵なできごとが必要なんだ霜踏みしめる

                      雨の日のベランダにいて世界はもうよっちゃんのうちみたいな匂い

                      あのころのきみそっくりな人見たよ知らないやつと話していたよ

                      色欲の色はなにいろかと問われ虹とこたえるあのひとの息

                      a prioriであるかのような顔をしてミネラルウォーター買うんだろまた

                      紅しょうがついてる森をふたによけ紅しょうがだけごはんに戻す

                      なんかもうおかだ引越センターのトラのマークを見るだけで泣く

                      はじめからサイズのずれているシャツを着つづけるのに似ている愛だ

                      もうすでに死んでいることわからずにインターネットばかり見ている

                      あなたにもさびしいうたの中でだけ会うようにしてるひとがいますか

                      はじめからとべやしないとわかっててまだ風を待つ鉄の鶏

                      どうしてもバッドエンドにしかならずそのくせゲームオーバーがない

                      ぬるま湯に浮かぶ娘と妻の垢 とおい銀河のように見ていた

                      メキシコにきっとたくさんいるはずの麻薬と関係のない人たち

                      ぼくたちはすでに書きつくされていてせめて芳一の耳をもぎたい

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