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    • 2018.03.29 Thursday
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    外野の短歌中継:第4回 ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。

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       この連載もどきをダシに短歌を読む/詠む力を鍛えていこうというのが最初の目的だったのだが、正直なところ詠む方にはビタいちフィードバックできていないような気がしている。
       好きな短歌がどう作り上げられているかを分析する、ってところまではまだいいが、それを自分なりに作歌へ応用できるかというと、やはりそれはまた違う話のようだ。
       真似をするにも技術がいる。使ってる言葉を表層的に真似るだけならまだしも、構造までとなるとなおさらだ。
       そんなことをぼんやり考えていたので、今回は下手に真似をすると大やけどを負う歌にしてみよう。

       

       ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。/穂村弘(『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』所収)

       

       ああ、何度読んでも真似したくなる。これっぽい文体でやってみたくなる。(正直言うとちょっとだけやってみたこともある。結果は聞かないでいただきたい。)
       これっぽい文体ってなんだと言われるとうまく説明できないのだが、"生身の人間が発しないタイプの言語感覚"という感じだろうか。ふだん使う言葉の延長線上にない、別の線上の言語感覚。
       もしくは"何かに憑依されたような文体"と言った方が近いかもしれない。ことにこの歌の場合は。
       このブログを読んでいるような奇特な方には今さら必要ないかもしれないが、一応説明を。
       『手紙魔まみ〜』は、"ほむほむ"こと穂村弘に少女"まみ"が午前午後各一枚ペースでひたすら送りまくった、ブッ飛んだファンレターをもとにほむほむが練り上げた歌集、という体の一冊である。
       つまりこの歌は、"まみ"の文体が穂村弘に憑依したことで生まれたもので、穂村弘という自我100%で作られた歌ではないはずだ。
       ちなみにまみのモデルは同じく歌人であり小説家の雪舟えまだそうだ。さすがまみだけあって、彼女の歌もたいがいとんでもないことになっている。実際にこの人から手紙が送られまくってくるようなことがあったら、こんな短歌、こんな本ができてしまうのもうなずける。

       

       著書『短歌の友人』『短歌という爆弾』などを読んだ限りでは、穂村は短歌の"私"性、一人称性についてかなり自覚的だ。その人が自分に誰かを憑依させて歌を作る、という時点で、間違いなく何か新しい狙いがあったはずだ。
       "私"に根差していない短歌といえば、例えば寺山修司の実際は生きているのに歌の中で死んだことにされてる家族だとか、平井弘の存在しない兄弟といった、自分のルーツを虚構化する手法がまず思い浮かんだ。
       でも穂村が『手紙魔まみ』でやったことは、それとまた次元が異なる。
       ルーツを虚構化するというのは、結局のところ"私"という土壌に植える植物の種類を変えるようなもので、土壌自体が別物に変わるわけではないし、むしろその土壌を強調する作用の方が強いかもしれない。一方、『手紙魔まみ』はそもそも"私"の土壌に生えていた作物を別の畑に植えなおした感がある。
       あえて乱暴に言ってしまうと、自分を自分ではない何かへ作りかえることへの欲望を、どうにも読みとってしまうのである。

       

       この歌は、その欲望が非常にねじれた形で透けて見える一首だと勝手に思っている。
       山田航『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』に、この歌の一首評が掲載されている。自分なりにこの歌の特徴を考える上でのスタート地点が、だいたいこの評で既に分析されていたので、まず前提として勝手ながらまとめておきたい。(そしてこの本もぜひ読んでいただきたい。)
       峺るものすべてに語りかけたい」という気持ちが表現されているが、穂村の《サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい》という歌と同様に、誰にも関心を持たれないようなものに自分の気持ちをぶちまけたいという心情が「カップヌードルの海老たち」に込められている
      語りかける対象がどんどん縮小し、具体的になっていくのに伴い、「まみ」の精神も明晰になっていく
      「陰」の性質を持つ、呼びかけても返事をしてもらえないものばかりに話しかけている

       

       生きていて、夜とか、静かな霜柱とか、カップヌードルの海老たちにハローと挨拶することがあるだろうか。基本的にない。リアクションが返ってこないものに話しかけても己のわびしさがしんしんと身に沁みるばかりだ。
       たぶんこの語り手はひとりぼっちだ。隣にだれかがいてくれる者が、夜や静かな霜柱やカップヌードルの海老たちに挨拶する必要はないし、やったら隣にいるだれかがそれなりに引くのが目に見える。
       だいいち相手は夜だ。夜に挨拶するならハローではなくグッドイブニングではないだろうか。
       でもハローなのである。同じく『陰の性質を持つ』、「静かな霜柱」にも「カップヌードルの海老たち」(これは言い方を変えれば海老の死体だ)にも、ハローなのである。
       非生物に話しかける孤独と対照的に、この歌を「ハロー」の強烈な肯定感が包んでいる。


       なんでこの人はこんなにうきうきと非生物に話しかけているのだろう。人間と話したくはないのだろうか。

       《サバンナの〜》も上記の指摘の通り、非生物に話しかける歌である。生き物からひり出された廃棄物に、誰にも言えない自分の感情を吐露しているこの語り手の孤独は、夜と霜柱と海老に話しかける孤独と非常に近い距離にある。
       反応が返ってこない相手にしかぶつけられない感情、というのは確かに存在する。
       言葉というのは例えば小石のようなもので、それがわかる相手に対してはまるで池に投げ込んだように波紋となって広がる。場合によっては相手に傷を負わせることだってある。
       非生物に話しかけるというのは、その小石をただコンクリートに向かって放るようなものだ。
       コンクリートは投げられた前でも後でもその状態を少しも変えないままそこにあり、小石はただころころと転がって止まるだけに終わる。
       でも、その放られた小石は、誰も傷つけなかったのだ。
       どうしても感情を何かにぶつけたいときがあって、でもそのぶつけられた対象が全く変化せず泰然とたたずんでいる。そのことに救われることは確実にあると思う。
       非生物に語りかけたい欲求、というのは行き場のない心がはけ口を求めた結果でもあるわけだ。

       

       山田航はこの呼びかけを「次第に明晰になっていく自分への恐怖を感じながらも、わかってくれる誰かを求めて呼びかけ続ける。それは、都市社会においてコミュニケーションを希求する孤独の表象」ととらえている。
       が、自分の印象では、『手紙魔まみ』の語り手の加速する視野狭窄はポジティブな心象の表れじゃないかと感じた。
       大きなものから小さなものまですべてを包みこむ慈愛の射程の大きさが示され、恋する相手のことしか見えなくなるような視野狭窄が世界を対象にしたものへとスライドしたような感じだ。
       いずれにせよこれは、『手紙魔まみ』というフォーマット、"まみ"という人格がほむほむにインストールされたことによる効果だろう。
       結果としてこの歌には、行き場のない感情を非生物に投げかけているくせに、その感情がやたらポジティブ、という不思議なねじれが生じている。
       このねじれは、"私"のねじれでもある。
       ねじれた、というよりはかなり主体的にねじった、という印象の方が強い。
       先に、自分を自分ではない何かへ作りかえることへの欲望、と書いたのはこの点だ。
       この歌は、詠み始めた穂村弘=ほむほむが推敲途中で人格をまみに書き換えられたような歌なのだ。この歌の肯定感、多幸感は、まみのモデルである雪舟えまの短歌にも通じる。
       なぜ、穂村弘はこういうことをしたんだろうか。
       そもそもそういうことができる時点ですごいし、短歌における"私"をこういうかたちで別人格としてフィクション化することで、一連の短歌は間違いなく異形の作品として残り続けることになったと思う。
       でもそこにあった新しい狙いはなんだったのか。
       正直言うとわからない。
       ただ、個人的には、短歌の"私"性とフィクションの関係において、「ああ、こういうこともやっちゃっていいんだ」と、妙にほっとしたのだった。

       

       もともと自分は小説を書いていて、読書傾向も小説に偏っているので、最初に短歌に触れたときは「なんでこんなにみんな、作品に作者の人生を反映することが当たり前だと思っているんだろう?」ということが疑問だった。
       実際に自分でも作歌するようになってから、短歌は否が応にもその中に自分が立ち現れてしまうことが多い、というよりは実人生を反映させることと相性がいい表現形式であるということは実感としてわかってきた。が、なぜ短歌はもっとフィクションであってはいけないのか、という疑問は未だに消えていない。
       短歌は、虚構性を取りこむ動機の在り方が、門外漢からするとかなり厳しいように見える。
       最近でも、といっても2年前だが、石井僚一が父の死をモチーフにした連作で短歌研究新人賞を受賞してから、実際に亡くなっていたのは父ではなく祖父であり、祖父を看取る父の心情と、自分自身の父への思いを重ねて詠んだと明かされて論議を呼んでいた。
      (この件については、東郷雄二、鈴木ちはねの記事と、加藤治郎・石川美南の対談が詳しく、面白く、勉強になった。肉親の死を歌う挽歌の重みを、これらの記事を読むことで自分もようやく実感した。
      http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/tanka/tanka/kanran157.html
      http://suzuchiu.hatenablog.jp/entry/2014/11/05/033006
      http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/culture_news/CK2014112602000308.html

       

       詠まれたことが事実ではないとわかったら価値がなくなるものであれば、批判を受けても不思議はない。石井僚一の受賞作も、予備知識なしでは父の死というモチーフが事実であると受け取られやすいつくりになっていたのも確かだとは思う。
       でも根本的に、(特定のモチーフの)短歌だと、なぜ事実ではないとわかったら価値が減じるととらえられるのだろう。
       ノンフィクションと銘打った本が実際は作者の創作だったらそれは批判されてしかるべきだが、では短歌はノンフィクションなのだろうか? 歌うモチーフによってはそうなってしまう、ということなのだろうか?
       祖父が亡くなったときの父に成り代わって歌を詠むことと、奇妙なファンレターを送ってくる女の子に成り代わって歌を詠むことの間に、本質的な違いはあるのだろうか?
       短歌は真実を歌わねばならない、というのは確かだ。それは芸術全般においてそうだろう。
       だが嘘が、事実ではなくとも誰かにとっての真実であることは往々にしてある。
       短歌は"嘘"であってはいけないのか。そもそも短歌は本当に"嘘"ではないのか。
       この虚構性のラインを、自分はまだ見定められずにいる。

       

       この連載もどきの本来の趣旨通り、外野で素人のおっさんがヤジを飛ばしてるような文章になってきてだんだん収拾がつかなくなってきたので、この辺で。
       こうは書いてきたけれど、小説みたいな短歌ばっかり増えたらつまらないだろうな、というのは薄々感じる。虚構に甘えてはいけない表現形式であるのは間違いない。
       でも短歌という制限は、もっと独自の虚構を生み出せるんじゃないだろうか、とも感じる。
       ならば『手紙魔まみ』は、やはり避けては通れないメルクマールじゃないだろうか。
       冒頭でこの歌を「下手に真似をすると大やけどを負う」と書いた時点ではあまり意識していなかったのだが、短歌としての強度を保ったうえでこの次元の虚構性を実現するには、並じゃないセンスと技術が必要になる。
       ただこういう虚構のたくらみに満ちた短歌も、自分が知らないだけで色々あるのだろうし、もっと読んでいきたいところである。


      外野の短歌中継:第3回 あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

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         まず、ある写真の話からはじめようと思う。


         日射しを弾く波を遠景に、撮られていることなど知らないまま、ふたりだけの花札遊びを続ける夏の中の男女。
         写真家・細江英公が、由比ヶ浜で花札に興じる澁澤龍彦と矢川澄子をとらえた一枚である。
         1965年に撮られた写真だそうだ。この仲睦まじいふたりは、約3年後に破局を迎えることとなる。
         この写真がとても好きだ。自分はふたりの関係がどうなっていったか、その顛末をあまり詳しくは知らないが、もう永遠に失われた一瞬のまぶしさに、思わず胸を打たれる。
         今回扱うのは、この写真にキャプションとして添えたいくらいの一首だ。

        あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ / 小野茂樹(『羊雲離散』所収)

         これを読んであの写真を連想したのは、もちろん過ぎ去って戻らないふたりの「あの夏」という共通要素はあるのだけど、「数かぎりなきそしてまたたつた一つ」という表現が、とても写真的なせいでもある。
         人生が、たとえば無限のページがずっとめくられ続けるパラパラ漫画のようなものだとしよう。
         言い換えれば、われわれの生きる時間はすべて瞬間の積み重なりでできている。
         写真はその一瞬、そのページをぺりっと一枚切り取ることに近い。
         短歌もそうじゃないだろうか。少なくともこの一首についてはそう思える。

         では、この歌(とあの写真)における、“瞬間”のどういう切り取り方がそう思わせるんだろうか。
         まず歌の方から見ていくと、最終的に「表情」に至るまでの絞りこみ方がとにかく素敵だ。
         小野茂樹が無限の瞬間の山から、まずがっさりと「あの夏」をひっぱり出す。
         この時点で半分勝ったようなもんである。「あの夏」は、たいてい誰にとっても「あの夏」だ。それは読者の記憶に積み重なったおびただしい数の瞬間のうち、遠くまぶしい季節のひと山を指す。
         だが、無限の中から取り出したひと山は、はたして有限なのだろうか。
         小野茂樹は即座にその答えを出す。
         取り出した「あの夏」の瞬間のひと山が、すでに「数かぎりな」いことを示すのだ。
         ∞を割り算しても答えは∞になるのと似ているだろうか。
         有限なはずの「あの夏」が瞬時に無限という姿をあらわすのである。

         そもそも無限、永遠という感覚と一番相性がいい季節は夏だと思う。
         春と秋は、夏と冬をむすぶ変化の過程という性質がもともと強いせいか、あまり永遠という時間感覚と仲がいい印象はない。永遠の春も永遠の秋も、じつに暮らしやすくて素敵なもんだと思うが、そこにその季節の美しさはあるだろうか。例えば桜も紅葉も、永遠にあるからではなく散りゆくことにその美しさは支えられているんじゃないか。
         永遠の冬はどうだろう。なんだか一気に、核戦争か隕石で世界が崩壊した後っていう類のディストピアSFめいてくる。人類は9割以上が死に絶えて数少ない生き残りは地下シェルターで暮らしている。寒い。つらい。食糧がない。(場合によっては詩情はあるが。)
         それとくらべて永遠の夏だ。Endless Summerだ。もうその組み合わせ自体が、とめどない憧憬とセンチメントを生み出す魔法の結合じゃないか。それに、繰り返しに近いが永遠の夏として続く夏を思い浮かべろと言われたら、たいてい誰にとってもそれは「あの夏」になる。

         だが、ただ永遠の夏をうたった"だけの"歌だったら、陳腐な凡作止まりだったんじゃないか、とも思う。
         この歌は、人のセンチメントにほぼ自動的に訴えかける、そんな強力なモチーフに依存するだけでは終わらない。
         まず「そしてまたたつた一つの」という第三・四句が、ありふれた夏のイメージから脱する、同時にいっそう極端にブーストする原動力となっている。
         ここまで限定から見出される無限の話をしてきたが、この第四句で再び、無限からの限定の動きがあらわれる。しかも今度は、「たつた一つの表情」という最上級の限定だ。
         人の顔はひとつなわけで、人が一度に浮かべられる表情はひとつだけのはずだ。でもこの歌のなかでは、「そしてまた」という第三句によって、「数かぎりなき」という永遠と「たつた一つの」という瞬間が、同時に存在していることになる。
         本来なら相反するものである永遠と瞬間が、同時に存在しえる時間とは、いつなのか。「あの夏」である。
         自分は量子力学に疎いので非常にいい加減な知識しかないが、シュレディンガーの猫という有名な思考実験がある。ミクロな粒子の発生を引き金にガスが発生する箱の中に入れられた猫は、観測されるまで生きた状態と死んだ状態が"重なり合って"いるのでは、というものだ。
         この歌を読むとそれを思い出す。この「表情」はシュレディンガーの猫だ。
         「数かぎりなき」そしてまた「たった一つ」という状態が重なり合っているのは、「あの夏」という、もう閉じられた箱の中だ。
         あまりにロマンチックではないか。

         この歌の、文字通り最後のキモが「せよ」だと思う。
         なぜ命令形なのだろうか。
         まずひとつには、その「表情」をする主体が語り手自身ではなく、他の誰かの表情であることを示すためだろう。
         語り手が、数かぎりなくその表情を見た"誰か"だ。
         でも、それなら「見せて」などと懇願するかたちや、「見たい」などの願望のかたちもありえただろう。
         なのになぜ命令形を、小野はあえて選んだのだろうか。
         自分にはどうにも、そこに小野の強い意志が反映されているように思える。「あの夏」という箱を開こう、という意志が。
         先ほど、「せよ」は"誰か"に対する命令という意味を含む旨書いたが、それは厳密に言うと違うかもしれない。
         封じられていた過去の記憶を、録画映像のように再生せよと自らに言い聞かせているようにも感じるのだ。
         「表情」は"誰か"の表情だが、その表情を「あの夏」のなかで再生させられるのは、ひょっとしたら語り手自身だけなのではないか。
         「せよ」という命令は、自分にも向けられていたのではないか。
         それはすなわち、記憶の中の「あの夏」という箱を開く、ということへのためらいと意志のあらわれでもある。
         箱を開いて中を観測した瞬間に確率は収束し、猫が生きているか死んでいるかが確定する。
         ぼんやりとしていた記憶の中の、"誰か"の姿をよりはっきりと観測することも、それと同じことだろう。
         確定してしまうことへの恐れと、それでもまたあの「表情」を見たいという強い憧憬。
         永遠と瞬間の往復、そしてこのあえての「せよ」に含まれる揺らぎに、強烈な夏の輝きを見た。

         長くなったが、冒頭の写真に戻ろう。
         この写真が美しい理由はいくつもあるが、自分の思うところとしてはこれだ。
         矢川澄子の顔が隠れていることだ。
         どんな表情をしていたのか、写真を見ているわれわれにはもう確かめられない。
         それを知っているのは、このとき彼女の前にいた澁澤龍彦だけ。
         矢川も、その澁澤も、もうこの世にはいない。
         この写真という、箱だけがわれわれの前にある。
         「あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情」が入ったまま、永遠に開かれることのない箱が。

        外野の短歌中継:第2回 おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ

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           第2回は、一読したときなんかわけわかんない形の鈍器でぶん殴られたような衝撃を受けたんだけど、その鈍器がどんなものなのか今までわけわかんないまんまで済ませてきたので、いい加減現場検証を行うべく選んだ。

          おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ / フラワーしげる「死と暴力 ア・ゴーゴー」(『ビットとデシベル』所収)

           フラワーしげるという歌人の存在は短歌を始めるちょっと前から知ってはいたが、もともと自分は小説家・翻訳家の西崎憲の読者であり、彼のTwitterアカウントで「今度これが出ます」と『ビットとデシベル』の告知がなされたときは驚きで鼻毛が抜けるかと思った。
           すぐに買い求めてページを開いたとたん「死と暴力 ア・ゴーゴー」という連作タイトル(?)が目に飛び込んできて、直後の一発目にこれがくる。
           なんだろう、この否応なさは。
           いきなり目の前に自分を喰おうとしている何かが現れた感じ。
           得体のしれないものが唐突に、そこにいるのが当たり前のような顔をして出てくる、というのは個人的にはとてもグッとくる要素なのだけど、脳天をどっかんどっかんぶん殴られてる最中でも、その相手をじっくり見つめることはできる。順を追ってかみ砕いていきたい。

           まずこの短歌はほとんど、「おれ」=「おまえの存在しない弟」=「ルルとパブロンでできた獣」の自己紹介だけでできている。
           だがこれを単なる自己紹介から逸脱させているのは、冒頭の「おれか」の一言だ。
           仮に「おれはおまえの存在しない弟だ」からこの歌がスタートしていたらだいぶ短歌の定型に近くなるが、フラワーしげるはわざわざ定型を強引に崩してまで、冒頭に「おれか」を付け足している。
           それによって何が起こるか。この自己紹介は、「おれ」が誰かに素性を問いかけられて言った答え、という性質をはっきりとまとうようになる。
          「おれか」がなかったら、この「おれ」が誰にも何も聞かれていない状態から勝手に語り出しているようにも読めてしまうが、この冒頭の三文字が置かれることによって、この短歌の中では言葉にされていない“問いかけ”と、それを発した“他者”が生まれる。
           定型崩しの暴力性のみならず、目に見えない存在、文字になっていない言葉がほのめかされることで、この歌は最初から水面下の巨大な氷山のような広がりと、不穏な気配をはらんで動き出す。
          (そもそも、たった31字で自分と世界を切り取る短歌という形式は生まれつき、その言葉にされない広がりこそが眼目であるわけだが。)

           では、その質問をした“他者”は誰か。
           直後に現れる「おまえ」としておくのが素直な読みか。
           それがこの歌を読んでいる読者なのか、はたまた別の誰かなのかは明示されていないが、これは自分だろうかと読者が一瞬でも思うことこそが重要だろう。
           その呼びかけによって、読者はこの短歌の中に引きずり込まれ、「おれ」の前に立たされるはめになる。
           そして「おれ」は読者に対して、「おまえの存在しない弟だ」と、何やら不気味なことを言い始める。
           なぜ不気味だと思うのか。
           それは、「存在しない弟」は、「生まれなかった弟」とも言い換えられるからだろう。
           弟は、誰にでも存在する可能性がある。母が自分のあとに生んだかもしれない生命。「おまえ」の母親が「おまえ」のあとに「おれ」を生むことだってありえただろう。
           だが、「おまえ」の今いる世界では、「おれ」は生まれなかった。たとえこの歌を読んだ読者には現実に弟がいたとしても、この「おれ」は生まれなかったのだ。
           さらに踏み込んで言うと、この「弟」には「そもそもはじめから存在しなかった弟」と「生まれずに死んだ弟」のふたつの含意がある。この「おれ」は、あらかじめ“無”と“死”を背負いこんでいる。
           そしてこの歌の中で、その「存在しない弟」が、ありえたかもしれない過去・未来から、枝分かれした世界の壁を乗り越えて、いきなり眼前に現れるのである。
           大げさな言い方をすれば、並行世界から襲撃を受けたようなものだろう。歌に表れる自己同一性というのはこれまで短歌でも非常に大きなテーマとして君臨してきたと思うのだけど、この歌では自己同一性どころか世界同一性が揺らいでいるわけだ。

           そこにとどまらず、「おれ」はさらに「ルルとパブロンでできた獣だ」と畳みかけてくる。もうめちゃくちゃである。
           強烈だけども非常に抽象的な単語ばかり発されてきたところで、いきなりルルとパブロンという、実在する風邪薬の名前がブッ込まれてくる。前回も同じようなことを書いたけども、この単語のレベルの飛躍でさらにドライブがかかっている。
           それにしてもなんなんすか「ルルとパブロンでできた獣」って。錬金術ですか。
           そういえば前に偉い錬金術師が「錬金術の基本は等価交換」って言ってたと思うんだけど、ルルとパブロンで錬成したキメラって、ふつうに考えるとめちゃめちゃ弱そうだ。
           ルルもパブロンも薬局でほいほい手に入るありふれた風邪薬で、かつ個人的には体調が悪い時にこれらの薬を飲んでてきめんに良くなったことがあるかといえば全くそんなことはなく、正直単なる気休め程度の威力しかないと思っている。
           だが、どうだろう。この歌の「獣」は、その素材にかかわらず、異様に禍々しい空気をまとってはいないか。
           反キリスト的、冒涜的なイメージをもつ「獣」という言葉選びのせいでもあるだろうが、それだけとも思えない。
           ここにあるのは、姿が見えない化け物が、固有名詞の力で一瞬だけ具現化されるような不気味さだ。しかもその化け物は、大量生産の製品であふれたわれわれの生活の中に潜んでいる。

           どうにも、「ルルとパブロン」というモチーフの軽さが、その禍々しさの源泉、この歌の暴力性を担う凶器に思えてならない。
           薬、というのは使い方によっては毒にも転じる。すべての薬は病とたたかい苦痛をいやす善の顔の裏に、危険な道具としての一面を必然的に隠している。それはルルもパブロンも例外ではない。
           だが、読者は「ルルとパブロン」に一瞬油断する。その軽さと具体性に油断する。軽さは“無”の、薬は毒すなわち“死”のすぐそばにあることに気づかずに。
           笑いの基本は緊張と緩和、と言われるが、それはホラーの基本にもそのまま適用できる。きたるべき恐怖への緊張を、間合いをずらして緩和させた瞬間こそ、最大の恐怖となりえる一瞬だ。
           その緩和に当たる部分が、「ルルとパブロン」である。
          「存在しない弟」に対峙させられるはめになった読者が、「ルルとパブロン」で一瞬油断する。だが、その油断した相手は、じつは危険な「獣」なのだと直後に明かされる。
           その瞬間、「ルルとパブロン」こそが、この歌の“無”と“死”を凝集する凶器であったのだと読者は本能的に気づくが、そのころにはもうこの獣に丸のみされた後である。
           西崎憲=フラワーしげるが、この理不尽ともいえる暴力性を表す方法として、強固で破壊しがいのある定型をもつ短歌という形式を選んだのは必然だと思う。
           そしてその暴力性は、読者である自分の中にあった固定観念的な短歌像をも、木っ端みじんに破壊してくれたのだった。

          外野の短歌中継:第1回 表面に〈さとなか歯科〉と刻まれて水星軌道を漂うやかん

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             短歌を始めて4カ月経ち、課題も出てきた。
             たとえば自分の中で、「いい短歌」の基準がちゃんと形作られていないんじゃないか、と思うようになってきた。
             それはすなわち、好きな短歌のどこがいいのか、自分の中ではっきり言葉にできていないということだし、短歌をちゃんと読み込めていないということでもある。
             実際、誰かの歌集を読んでいても、一首一首ちゃんと読もうとしていつまで経っても読み終わらなかったり、逆にいったん最後まで読み終えようとしてどうにも流し読みになってしまったりする。
             それならいっそいろんな歌をざああっと読みあさり、その中で気になったひとつの歌を自分なりにごりごり掘り下げて読み込むのがいいんじゃないだろうか。
             と思ったので、ここで勝手に連載のつもりでその結果を書いていこうと思う。
             これを書いている今、ちょうどテレビでは広島カープ対横浜ベイスターズのゲームを放映している。球場でビールをあおりながら素人野球論をぶつおっさんのごとく書いていくつもりなので、タイトルはとりあえず『外野の短歌中継』としておこう。

             


             第1回、どの歌にするか迷ったけど、短歌を読み始めたころすぐにしっくりきた笹井宏之の、一番好きな歌にすることにした。

             表面に〈さとなか歯科〉と刻まれて水星軌道を漂うやかん / 笹井宏之「くらげ発電」(『ひとさらい』所収)

             描かれている情景を想像すると、空耳アワーの映像を音声なしで見ているような気分になる。一見あほくさい歌だ。
             けど、考えてみると色々面白い要素が隠されていると思う。
             まず、どうやら自分は言葉の跳躍力を感じる歌に弱いらしいのだが、この歌はその点ずいぶんな距離を跳んでいる。むしろ飛んでいる。何しろ水星だ。
             いきなり水星軌道にテレポートするこの飛躍を支えているのが、〈さとなか歯科〉という固有名詞だと思う。
             笹井の家の近所に実際にあったかは知る由もないが、〈さとなか歯科〉はいかにもその辺にありそうな名前だ。
             もしこれが〈さとなか歯科〉じゃなくて非日常的な名前だったとしたら、「水星軌道」という強い言葉と打ち消し合ってしまうだろうし、「身近なところからとんでもないところに飛ばされた」というギャップの衝撃が小さくなっていたと思う。
            〈さとなか歯科〉というありふれているけど具体的な、濁点の入らないするっとした語感の名前によって読者の視点をひきつけたうえで、一気に水星軌道までふっ飛ばす。
             この言葉選びが、読者の目をまず卑近なところに貼りつける接着剤であり、水星軌道へのはるかな距離を測るためのスタート地点であり、それを瞬時に縮めることで生まれるダイナミクスの原動力となっている。

             で、「表面に〈さとなか歯科〉と刻まれ」た何が「水星軌道を漂」っているのか。
             言うまでもないが言う。やかんである。
             やかん。今これを書いている自分の左1メートルほどの位置にまさしくやかんが存在する。
             宇宙空間で目の当たりにするはずがない、日常の匂いがやたらと強いものが唐突に現れることで、読者の視覚は1億5000万キロ先の水星軌道に取り残されたまま、意識だけが強制的に半径1メートルへと引き戻されることとなる。
             VRに没入して仮想宇宙旅行を楽しんでいたところに、母親の「ごはんよー」の声が響いて我に返るようなものだろうか。
             たった32字の間で瞬時に、これほど異常な距離を往復させられる歌もそうそうない。
             そしてこの短歌が面白いのは、単に読み手が長大な距離を行って帰ってくるだけじゃなくて、行ってガッカリして帰ってくるところだと思う。
             だってやかんだよ。水星軌道くんだりまで飛んできて、やかんだよ。
             海外旅行先で地元の人に一番うまい店はどこか聞いて、わくわくしながら行ってみたらとんこつラーメン屋だった、っていうタイプのがっかり感だ。
             でもそういうがっかりイベントはたいてい、後からその旅を振り返ってみると真っ先に、一番笑えた思い出としてよみがえってくるものじゃないだろうか。
             そういう脱力感をともなう悔しさがすごくいい。

             と、いち読者としてはけらけら笑いながら読んでいたこの歌だが、作者からすればそこまでなまやさしいものではなかったのかもしれない。
             笹井宏之は、重度の身体表現性障害を患ってほぼ寝たきりの生活だったという。
             この歌を収録した第一歌集『ひとさらい』のあとがきで彼は、「短歌をかくことで、ぼくは遠い異国を旅し、知らない音楽を聴き、どこにも存在しない風景を眺めることができます。(中略)短歌は道であり、扉であり、ぼくとその周囲を異化する鍵です」と語っている。
             この歌は、笹井が眺めた「どこにも存在しない風景」の歌だ。
             笹井が、自分の周囲、自分の半径1メートルにあっただろうやかんを、短歌という鍵を用いて異化したことで生まれた風景といってもいい。
             冒頭で、さとなか歯科という名前について、「読者の目をまず卑近なところに貼りつける接着剤であり、水星軌道へのはるかな距離を測るためのスタート地点であり、それを瞬時に縮めることで生まれるダイナミクスの原動力」と書いた。
             この跳躍力は、読者だけではなく、この歌を作った笹井自身を、はるかな水星軌道まで飛ばすために生み出されたものだったんじゃないだろうか。
             いつも横たわるベッドの脇にしばしば置かれる、歯科の名前が刻まれたやかんがあったとして、そのレトロなUFOめいた丸みに笹井は1億5000キロ離れたところにある惑星を、存在しない風景への扉を幻視したのかもしれない。

             そう考えると少し気になることがある。
             この歌はなんで“帰ってくる”んだろうか。
             安直な改作だが、たとえばもし、

            表面に〈さとなか歯科〉と刻まれたやかんが漂う水星軌道

             だったとしたら、やかんはスリングショットのごとくびいんと水星まで弾き飛ばされて軌道を回り続け、永遠に帰ってこない。
             歌としての出来はやっぱり元の方がいい。やかんを前に持ってくると、さとなか歯科とやかんがあっさりくっついてしまい、さとなか歯科→水星軌道→やかんのダイナミクスが失われてしまう。
             という点はもちろん前提としてあるけれど、自分が笹井宏之だったらそっちを選べただろうか。
             苦しみに満ちた体を抜け出して、そのまんま宇宙のかなたへ飛んでいって、水星軌道を永遠に回り続ける方がいい、と考えてしまうんじゃないか。
             でも笹井はそうせずに、やかんを後ろに据えて“帰って”きた。
             そこに見える作為は、単なる逃避の手段として短歌を使いはしないという姿勢の表れじゃないだろうか。
             それに、自己憐憫に陥らず冷静に己と短歌を見つめる目と、逃避の感覚を脱力感で包み込むユーモアこそが、この歌にこめられた願望の切実さを際立たせているんじゃないかと思う。

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