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    • 2018.03.29 Thursday
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    現時点での自選短歌30首

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      今年頭から短歌を詠み始めて、Twitterに放流した数が気づけば200首を超えた。
      決して早いペースとは言えないが、飽きっぽい自分にしてはそれなりにきちんと続いている。
      そのログは、ツイログの短歌タグでまとめているのだけど、さすがにさかのぼるのが億劫になってきた。
       http://twilog.org/thunderheadhour/hashtags-%E7%9F%AD%E6%AD%8C
      というわけで、以下30首が現時点での選抜メンバーです。ご笑覧ください。
       


      今ちょっと気づいたんだがおれたちはペットショップの売れ残りでは

      この街にミノタウロスを放ちたい迷ってることばれないように

      洗剤のCMの皿のすみっこの数粒の菌のようないいわけ

      死を恐れセックスをやめたぼくたちの骨のかわりに糸をください

      いいくにをつくらなくてもよいのだと鎌倉幕府のデータが消える

      夜があけてきっと誰もが歯をみがくおとぎ話のめでたしのさき

      空をゆくあなたの影に轢かれたと気づかないまま海辺の街は

      ふたりして日々をつらねたある朝にきっと新たな動詞をつくる

      もうだれも思い出さない平面で今もほほえむ美少女と風

      とりいそぎタイムカードは押したから猫のあくびのまねしていいよ

      母子像は背後をとられているなどと知らないままに服がつるつる

      たそがれにのたれ死んでる手袋がまねようのない呪印を結ぶ

      水中の万年筆のペン先のあおくゆらめくほどけゆくいま

      日暮里の駅に金魚の池がありまたおにぎりのごみが浮いてる

      ショッピングモールのゲームセンターでたしかにぼくは海鳴りを聞いた

      とんかつのように素敵なできごとが必要なんだ霜踏みしめる

      雨の日のベランダにいて世界はもうよっちゃんのうちみたいな匂い

      あのころのきみそっくりな人見たよ知らないやつと話していたよ

      色欲の色はなにいろかと問われ虹とこたえるあのひとの息

      a prioriであるかのような顔をしてミネラルウォーター買うんだろまた

      紅しょうがついてる森をふたによけ紅しょうがだけごはんに戻す

      なんかもうおかだ引越センターのトラのマークを見るだけで泣く

      はじめからサイズのずれているシャツを着つづけるのに似ている愛だ

      もうすでに死んでいることわからずにインターネットばかり見ている

      あなたにもさびしいうたの中でだけ会うようにしてるひとがいますか

      はじめからとべやしないとわかっててまだ風を待つ鉄の鶏

      どうしてもバッドエンドにしかならずそのくせゲームオーバーがない

      ぬるま湯に浮かぶ娘と妻の垢 とおい銀河のように見ていた

      メキシコにきっとたくさんいるはずの麻薬と関係のない人たち

      ぼくたちはすでに書きつくされていてせめて芳一の耳をもぎたい

      短歌こわい

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         短歌を始めて2ヶ月経つ。
         かなり濃密な2ヶ月だった。プライベートでも超ビッグイベントがあったのと相まって、すでに1年生きたような心持ちである。
         これを書いている時点で、Twitterに流した短歌は94首あった。アップしていないものも多少ある。極度に飽きっぽい自分にしては、ずいぶんまともに続いている。今のところ枯れる気配もない。
         ただ、始めた直後と比べて、少しずつ意識が変わりつつある。
         短歌に「恐ろしさ」を感じるようになってきたのだ。

         歌集や歌論などを少しずつ読み始めてうすうすわかってきたのは、短歌は絶対的に「私」が出発点となること、そしてそれに嘘をつけないということだった。
         それは別に自分の生活そのものをリアリスティックに歌わなければいけないということではなく、そのときの「私」の心情、環境、価値観、その他「私」を構成しその歌を生み出した土壌を偽ってはならない、ということらしい。
         小説とはやはりそこが大きく違う。
         小説はむしろ、嘘をつかなければならない。「私」を物語という嘘、ノイズで歪めなければならない。その歪み、迂回こそが小説の魅力だ。その上で、ノイズまみれで見えなくなった「私」の断片が物語のすきまからこぼれていく。
         短歌は、その物語という嘘が向いていない表現形式だ。「私」というものをひとさじ切り取るにあたって、ノイズが混じっていたらそれは「私」ではなく単なるノイズになってしまう。
         もともと自己韜晦癖が強いほうだが、短歌はそんなものを許してはくれない。おまえの断片を、おまえが世界をどう見ているかをここに見せてみろ、と迫ってくる。
         裸で寒空の下に放り出されるような心細さだ。隠れる場所などない。まったくもって恐ろしいもんである。
         でも、やってみるとそれが意外にも心地よかったりするのが不思議だ。

         それに、今短歌をやることの大きな意義として、「私」というものの捉え方が今ちょうど変化しつつある時代である、ということを思う。
        「私」という存在が自分自身とイコールだった時代から、前衛短歌の時代を経て「私」を虚構化する動きが現れたりしたそうなのだけど、今はインターネットの普及などによってそもそもその「私」が虚構化どころかあらゆる形で分裂・偏在しているようにも思えて、だからこそそれを短歌として抽出するのが面白い。

         しかしこれから、どういう形で短歌を発表していくのがいいのかは未だによくわからない。
         新聞や雑誌に投稿してみたり、結社に入って歌会に顔を出したりしている自分がどうにも想像がつかない。
         というか、始めたのも遅く他ジャンルから流れてきた自分は、最終的に「短歌の人」になれないような気がしている。
         当分はこのままネット上でひたすら作歌していくことになるんだろうけども、自分のレベルが上がっているのか、いい歌を作れているのかが正直よくわからなくて、それがたまにわびしい。
         Twitterでふぁぼられるのはもちろんとても嬉しいんだけど、気に入られる短歌のタイプもある程度かたよっているように思えるので、「ふぁぼられやすい短歌」に流れたくないという気持ちもけっこう強くなってきている。
         ただ、短歌タグをまとめたTwitterのログをつぶやいたときに、おれが短歌を始めるきっかけとなった『桜前線開架宣言』の山田航さんがお気に入りにいれてくれたときは、とても嬉しかった。少しだけあの本に恩返しができているようで。
         変な言い方だけども、短歌には「恩」がある、という気持ちが強い。今後もその恩を受け続け、同時並行で恩返しをし続けていければいいなと思う。

        『桜前線開架宣言』と、いきなり短歌を詠みはじめた理由

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           Twitterを見てくれてる方はお気づきかもしれないが、年明けから不意に短歌を始めてしまった。
           小説を書け、と言われたら平に謝るほかない。でも短歌をやるのは小説を書くために必要な回り道である気もしている。
           外れていた片輪がようやく見つかったような気すらしている。

           直接的なきっかけは、昨年末に出た山田航さんの『桜前線開架宣言』という本だ。
           これは自らも歌人である山田さんが、70年代以降の生まれの歌人40人を集めて、その論評と歌をまとめたアンソロジー。
           彼のブログは以前からたまに見ていて、この本の原型となった「現代歌人ファイル」も斜め読みしてはいたのだけど、改めて本の形で読んだらずっぱりとはまってしまった。
           じつに熱い本なのだ。あとがきから引用する。
          「『短歌を変えてやりたい』って思ってます。真剣に。短歌が少数の人にしか読まれないって、どう考えてもおかしいじゃないですか。だって商業出版される小説の九割は、自費出版の歌集よりつまんないですよ。ぼくは本気でそう思っていますから。」
           2冊商業出版させてもらった人間が感銘を受けていい文章なのかわからないが、少なくともこう認めざるを得ない。
           実際、この本で紹介されている短歌は、へたな商業小説よりも格段に面白い。

           例えばへんてこな小説を好む人には、石川美南氏の以下のような作品は奇想掌編を読む感覚で入っていけるはずだ。
          <夜になれば移動する木々(まづは根を)(つづいて幹を)国境へと>
           横山未来子氏のこの歌なんかもう、五感を拡張するようなあまりに鮮やかな世界の保存のしかたにうなった。
          <はりはりとセロファンは鳴り花束の多く行きかふ街に風吹く>
           今の日本の日常が乗っかっているものの気味悪さを切り取ったものでは、岡野大嗣氏のこれも秀逸。
          <白というよりもホワイト的な身のイカの握りが廻っています>

           それにその歌人の特徴を、恐れずに“断言”している山田さんの論評がこちらを否応なく引き込む。
           分析の説得力もさることながら、覚悟をもってその歌を押し出そうとしているその姿勢にぐっとくる。
           この本を読み終わる頃にはきっと、ここに掲載されている人の歌集をどれか手に入れてみようか、というくらいの気持ちになっていると思う。
           本当に面白い本なのでぜひ手に取ってみてください。
          http://sayusha.com/catalog/books/literature/p=9784865281330c0095
           

           で、自分の場合、そこをちょっと通り越して、うっかり自分で短歌を詠みはじめてしまったのだった。
           なぜか。
           ここからしばらく自分語りをするのでご注意ください。

           去年の頭、おれは一度商業小説家として死んでいる。
          一昨年の春ごろだったか、遅れに遅れつつもなんとか仕上げた『まほうびんぼう』続編がお蔵に入る羽目になった。理由はいくつかあるけれど、一番大きいのは遅れに遅れたせいである。
           その代わりに別のものを急いで作ろう、という提案を受けて、ガガッとプロット立ててガガッと一度は書き上げた。んで、一昨年末から昨年頭にかけて、さらにもう一段クオリティを上げるべく改稿していたのだけども。
           自分には、悪い意味で完璧主義的なところがある(あんな作品を書いていてもだ!)のだが、この時、それが一番悪い形で出てしまった。
           直しているうちに、そのクオリティのアレっぷりに嫌気がさして、今度は自らお蔵入りにしてしまったのだった。
           書かれない名作より書かれた駄作、というのが物書きの不文律だと頭ではわかっている。
           だが、実際に(自分内判定での)駄作を書いてしまった、というのは想像以上にダメージが大きかった。あれは確かに駄作だったのだ。
           そこでいったん、依頼は途切れた。
           前の本が出てから3年間本を出せず、その後の予定もなくなったわけだ。
           それからというもの、まったく小説が書けなくなってしまった。
           プロットを立てようと思っても形にならずに雲散霧消していく。
           かろうじて形になりそうなものも、「そんなクオリティのものでいいのか?」と頭の中の別のやつが黒板消しで消していく。
           潜んでいる何かに、形を与えて、繋ぎあわせて、この世に実体化させたいという気持ちはずっとくすぶっていたが、ただただくすぶり続けておれの精神に低温やけどのような鬱を残すばかりだった。
           その間に実生活の方ではそれなりに色々なことがあり、小説を書くこと以外のすべてが川下りのように流れていった。

           そんなこんなで「結局なんも書けなかった……」と迎えた年末に、この本を手に取り、まえがきの部分を読んで、おれは思わず目を見開いた。
           山田さんは、小説や漫画や映画は苦手で、芸術の形式では一番音楽が好きだという話のあとで、こう書いていた。
          「ぼくは本が嫌いなのではなくて、『物語』があるものが嫌いなだけなんだと気付いた」
           またしても商業小説家としてどうかと思うことを書こう。
           わかる。超わかる。めちゃめちゃわかる。
           だってこの1年近く、おれは「物語が邪魔だ」と思い続けてきたのだから。

           自らお蔵入りにした作品は、今思えば、ただひたすらシンプルなプロットだけでできているようなものだった。
           とある架空のバンドの物語で、最初は大人数の群像短編劇として考えていたのだけども、時間的な制約もあり、シンプルな活劇に変更したのだった。
           たぶん、それを完成させられなかったのには理由があるんだと思う。
           どうにもそのプロットの直線的な整合性を取ることばかりに気を取られて、作品を面白くすることができずにいた。
           物語(のプロットという側面)に、どうにもぐるぐる巻きに縛られていた。
           でも一応おれにも小説家としての見栄がある。そんなことは思っていても口に出せなかった。それに、口に出すと自分の中の何かが終わりそうな気もして怖かった。
           そんな折に、山田さんのその一節で、わりにあっさりと自分の思っていたことを代弁されてしまったのだった。
           こういうのを魔が差したというんだろう。
           読み終えた勢いで、おれは短歌らしきものをiPhoneのメモ帳に打ち込みはじめた。
           感覚の孔が開く、という開放感を久しぶりに覚えた。
           小説でうまく語れなかった物事が、物語のくびきを離れて、するすると指から流れ出てくる。
           まず一瞬の反射からスタートする、その感触がいい。
           小説は世界を大ナタで切って削って煮て焼いてと、じっくり調理するものだと思うけど、短歌はスプーンで世界の断片をすくいとるような感じだ。その塩梅が妙にしっくりきた。
           その快感に頭が呆けたか、結局は思いついたものを「#短歌」というハッシュタグをつけてTwitterに放流してしまったのだった。
           書いたものは以下にまとまっていて、今後も増えていくので、よかったら読んでみてください。
          http://twilog.org/thunderheadhour/hashtags-%E7%9F%AD%E6%AD%8C

           今までろくに短歌を読んだこともない人間がずいぶん危ないことをやっているな、と自分でも思う。
           ただ、これを始めたおかげで、考えが変わったところもあった。
           作るうえで「物語が邪魔」というものの出口ができた。そのおかげで、「物語が必要」なものの方の出口の、渋滞が緩和された気がするのだ。
           元日、担当さんにだけは書こうと思っていた年賀状を書きあぐねていたところに、その担当さんからの年賀状が届いた。
           手書きで、「小説は書いていますか」とあった。
           今年は、たぶん、小説も何か書けると思います。

           ちなみに頓挫したバンドの話は、短歌の連作として再生させることを検討中。
          『まほうびんぼう』の、一冊分たまっている続編は、どうしましょうね。
           同人誌作って文フリでも出るべきなのか、いまだに迷っている。

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