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    外野の短歌中継:第2回 おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ

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       第2回は、一読したときなんかわけわかんない形の鈍器でぶん殴られたような衝撃を受けたんだけど、その鈍器がどんなものなのか今までわけわかんないまんまで済ませてきたので、いい加減現場検証を行うべく選んだ。

      おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ / フラワーしげる「死と暴力 ア・ゴーゴー」(『ビットとデシベル』所収)

       フラワーしげるという歌人の存在は短歌を始めるちょっと前から知ってはいたが、もともと自分は小説家・翻訳家の西崎憲の読者であり、彼のTwitterアカウントで「今度これが出ます」と『ビットとデシベル』の告知がなされたときは驚きで鼻毛が抜けるかと思った。
       すぐに買い求めてページを開いたとたん「死と暴力 ア・ゴーゴー」という連作タイトル(?)が目に飛び込んできて、直後の一発目にこれがくる。
       なんだろう、この否応なさは。
       いきなり目の前に自分を喰おうとしている何かが現れた感じ。
       得体のしれないものが唐突に、そこにいるのが当たり前のような顔をして出てくる、というのは個人的にはとてもグッとくる要素なのだけど、脳天をどっかんどっかんぶん殴られてる最中でも、その相手をじっくり見つめることはできる。順を追ってかみ砕いていきたい。

       まずこの短歌はほとんど、「おれ」=「おまえの存在しない弟」=「ルルとパブロンでできた獣」の自己紹介だけでできている。
       だがこれを単なる自己紹介から逸脱させているのは、冒頭の「おれか」の一言だ。
       仮に「おれはおまえの存在しない弟だ」からこの歌がスタートしていたらだいぶ短歌の定型に近くなるが、フラワーしげるはわざわざ定型を強引に崩してまで、冒頭に「おれか」を付け足している。
       それによって何が起こるか。この自己紹介は、「おれ」が誰かに素性を問いかけられて言った答え、という性質をはっきりとまとうようになる。
      「おれか」がなかったら、この「おれ」が誰にも何も聞かれていない状態から勝手に語り出しているようにも読めてしまうが、この冒頭の三文字が置かれることによって、この短歌の中では言葉にされていない“問いかけ”と、それを発した“他者”が生まれる。
       定型崩しの暴力性のみならず、目に見えない存在、文字になっていない言葉がほのめかされることで、この歌は最初から水面下の巨大な氷山のような広がりと、不穏な気配をはらんで動き出す。
      (そもそも、たった31字で自分と世界を切り取る短歌という形式は生まれつき、その言葉にされない広がりこそが眼目であるわけだが。)

       では、その質問をした“他者”は誰か。
       直後に現れる「おまえ」としておくのが素直な読みか。
       それがこの歌を読んでいる読者なのか、はたまた別の誰かなのかは明示されていないが、これは自分だろうかと読者が一瞬でも思うことこそが重要だろう。
       その呼びかけによって、読者はこの短歌の中に引きずり込まれ、「おれ」の前に立たされるはめになる。
       そして「おれ」は読者に対して、「おまえの存在しない弟だ」と、何やら不気味なことを言い始める。
       なぜ不気味だと思うのか。
       それは、「存在しない弟」は、「生まれなかった弟」とも言い換えられるからだろう。
       弟は、誰にでも存在する可能性がある。母が自分のあとに生んだかもしれない生命。「おまえ」の母親が「おまえ」のあとに「おれ」を生むことだってありえただろう。
       だが、「おまえ」の今いる世界では、「おれ」は生まれなかった。たとえこの歌を読んだ読者には現実に弟がいたとしても、この「おれ」は生まれなかったのだ。
       さらに踏み込んで言うと、この「弟」には「そもそもはじめから存在しなかった弟」と「生まれずに死んだ弟」のふたつの含意がある。この「おれ」は、あらかじめ“無”と“死”を背負いこんでいる。
       そしてこの歌の中で、その「存在しない弟」が、ありえたかもしれない過去・未来から、枝分かれした世界の壁を乗り越えて、いきなり眼前に現れるのである。
       大げさな言い方をすれば、並行世界から襲撃を受けたようなものだろう。歌に表れる自己同一性というのはこれまで短歌でも非常に大きなテーマとして君臨してきたと思うのだけど、この歌では自己同一性どころか世界同一性が揺らいでいるわけだ。

       そこにとどまらず、「おれ」はさらに「ルルとパブロンでできた獣だ」と畳みかけてくる。もうめちゃくちゃである。
       強烈だけども非常に抽象的な単語ばかり発されてきたところで、いきなりルルとパブロンという、実在する風邪薬の名前がブッ込まれてくる。前回も同じようなことを書いたけども、この単語のレベルの飛躍でさらにドライブがかかっている。
       それにしてもなんなんすか「ルルとパブロンでできた獣」って。錬金術ですか。
       そういえば前に偉い錬金術師が「錬金術の基本は等価交換」って言ってたと思うんだけど、ルルとパブロンで錬成したキメラって、ふつうに考えるとめちゃめちゃ弱そうだ。
       ルルもパブロンも薬局でほいほい手に入るありふれた風邪薬で、かつ個人的には体調が悪い時にこれらの薬を飲んでてきめんに良くなったことがあるかといえば全くそんなことはなく、正直単なる気休め程度の威力しかないと思っている。
       だが、どうだろう。この歌の「獣」は、その素材にかかわらず、異様に禍々しい空気をまとってはいないか。
       反キリスト的、冒涜的なイメージをもつ「獣」という言葉選びのせいでもあるだろうが、それだけとも思えない。
       ここにあるのは、姿が見えない化け物が、固有名詞の力で一瞬だけ具現化されるような不気味さだ。しかもその化け物は、大量生産の製品であふれたわれわれの生活の中に潜んでいる。

       どうにも、「ルルとパブロン」というモチーフの軽さが、その禍々しさの源泉、この歌の暴力性を担う凶器に思えてならない。
       薬、というのは使い方によっては毒にも転じる。すべての薬は病とたたかい苦痛をいやす善の顔の裏に、危険な道具としての一面を必然的に隠している。それはルルもパブロンも例外ではない。
       だが、読者は「ルルとパブロン」に一瞬油断する。その軽さと具体性に油断する。軽さは“無”の、薬は毒すなわち“死”のすぐそばにあることに気づかずに。
       笑いの基本は緊張と緩和、と言われるが、それはホラーの基本にもそのまま適用できる。きたるべき恐怖への緊張を、間合いをずらして緩和させた瞬間こそ、最大の恐怖となりえる一瞬だ。
       その緩和に当たる部分が、「ルルとパブロン」である。
      「存在しない弟」に対峙させられるはめになった読者が、「ルルとパブロン」で一瞬油断する。だが、その油断した相手は、じつは危険な「獣」なのだと直後に明かされる。
       その瞬間、「ルルとパブロン」こそが、この歌の“無”と“死”を凝集する凶器であったのだと読者は本能的に気づくが、そのころにはもうこの獣に丸のみされた後である。
       西崎憲=フラワーしげるが、この理不尽ともいえる暴力性を表す方法として、強固で破壊しがいのある定型をもつ短歌という形式を選んだのは必然だと思う。
       そしてその暴力性は、読者である自分の中にあった固定観念的な短歌像をも、木っ端みじんに破壊してくれたのだった。

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