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    • 2018.03.29 Thursday
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    外野の短歌中継:第3回 あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

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       まず、ある写真の話からはじめようと思う。


       日射しを弾く波を遠景に、撮られていることなど知らないまま、ふたりだけの花札遊びを続ける夏の中の男女。
       写真家・細江英公が、由比ヶ浜で花札に興じる澁澤龍彦と矢川澄子をとらえた一枚である。
       1965年に撮られた写真だそうだ。この仲睦まじいふたりは、約3年後に破局を迎えることとなる。
       この写真がとても好きだ。自分はふたりの関係がどうなっていったか、その顛末をあまり詳しくは知らないが、もう永遠に失われた一瞬のまぶしさに、思わず胸を打たれる。
       今回扱うのは、この写真にキャプションとして添えたいくらいの一首だ。

      あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ / 小野茂樹(『羊雲離散』所収)

       これを読んであの写真を連想したのは、もちろん過ぎ去って戻らないふたりの「あの夏」という共通要素はあるのだけど、「数かぎりなきそしてまたたつた一つ」という表現が、とても写真的なせいでもある。
       人生が、たとえば無限のページがずっとめくられ続けるパラパラ漫画のようなものだとしよう。
       言い換えれば、われわれの生きる時間はすべて瞬間の積み重なりでできている。
       写真はその一瞬、そのページをぺりっと一枚切り取ることに近い。
       短歌もそうじゃないだろうか。少なくともこの一首についてはそう思える。

       では、この歌(とあの写真)における、“瞬間”のどういう切り取り方がそう思わせるんだろうか。
       まず歌の方から見ていくと、最終的に「表情」に至るまでの絞りこみ方がとにかく素敵だ。
       小野茂樹が無限の瞬間の山から、まずがっさりと「あの夏」をひっぱり出す。
       この時点で半分勝ったようなもんである。「あの夏」は、たいてい誰にとっても「あの夏」だ。それは読者の記憶に積み重なったおびただしい数の瞬間のうち、遠くまぶしい季節のひと山を指す。
       だが、無限の中から取り出したひと山は、はたして有限なのだろうか。
       小野茂樹は即座にその答えを出す。
       取り出した「あの夏」の瞬間のひと山が、すでに「数かぎりな」いことを示すのだ。
       ∞を割り算しても答えは∞になるのと似ているだろうか。
       有限なはずの「あの夏」が瞬時に無限という姿をあらわすのである。

       そもそも無限、永遠という感覚と一番相性がいい季節は夏だと思う。
       春と秋は、夏と冬をむすぶ変化の過程という性質がもともと強いせいか、あまり永遠という時間感覚と仲がいい印象はない。永遠の春も永遠の秋も、じつに暮らしやすくて素敵なもんだと思うが、そこにその季節の美しさはあるだろうか。例えば桜も紅葉も、永遠にあるからではなく散りゆくことにその美しさは支えられているんじゃないか。
       永遠の冬はどうだろう。なんだか一気に、核戦争か隕石で世界が崩壊した後っていう類のディストピアSFめいてくる。人類は9割以上が死に絶えて数少ない生き残りは地下シェルターで暮らしている。寒い。つらい。食糧がない。(場合によっては詩情はあるが。)
       それとくらべて永遠の夏だ。Endless Summerだ。もうその組み合わせ自体が、とめどない憧憬とセンチメントを生み出す魔法の結合じゃないか。それに、繰り返しに近いが永遠の夏として続く夏を思い浮かべろと言われたら、たいてい誰にとってもそれは「あの夏」になる。

       だが、ただ永遠の夏をうたった"だけの"歌だったら、陳腐な凡作止まりだったんじゃないか、とも思う。
       この歌は、人のセンチメントにほぼ自動的に訴えかける、そんな強力なモチーフに依存するだけでは終わらない。
       まず「そしてまたたつた一つの」という第三・四句が、ありふれた夏のイメージから脱する、同時にいっそう極端にブーストする原動力となっている。
       ここまで限定から見出される無限の話をしてきたが、この第四句で再び、無限からの限定の動きがあらわれる。しかも今度は、「たつた一つの表情」という最上級の限定だ。
       人の顔はひとつなわけで、人が一度に浮かべられる表情はひとつだけのはずだ。でもこの歌のなかでは、「そしてまた」という第三句によって、「数かぎりなき」という永遠と「たつた一つの」という瞬間が、同時に存在していることになる。
       本来なら相反するものである永遠と瞬間が、同時に存在しえる時間とは、いつなのか。「あの夏」である。
       自分は量子力学に疎いので非常にいい加減な知識しかないが、シュレディンガーの猫という有名な思考実験がある。ミクロな粒子の発生を引き金にガスが発生する箱の中に入れられた猫は、観測されるまで生きた状態と死んだ状態が"重なり合って"いるのでは、というものだ。
       この歌を読むとそれを思い出す。この「表情」はシュレディンガーの猫だ。
       「数かぎりなき」そしてまた「たった一つ」という状態が重なり合っているのは、「あの夏」という、もう閉じられた箱の中だ。
       あまりにロマンチックではないか。

       この歌の、文字通り最後のキモが「せよ」だと思う。
       なぜ命令形なのだろうか。
       まずひとつには、その「表情」をする主体が語り手自身ではなく、他の誰かの表情であることを示すためだろう。
       語り手が、数かぎりなくその表情を見た"誰か"だ。
       でも、それなら「見せて」などと懇願するかたちや、「見たい」などの願望のかたちもありえただろう。
       なのになぜ命令形を、小野はあえて選んだのだろうか。
       自分にはどうにも、そこに小野の強い意志が反映されているように思える。「あの夏」という箱を開こう、という意志が。
       先ほど、「せよ」は"誰か"に対する命令という意味を含む旨書いたが、それは厳密に言うと違うかもしれない。
       封じられていた過去の記憶を、録画映像のように再生せよと自らに言い聞かせているようにも感じるのだ。
       「表情」は"誰か"の表情だが、その表情を「あの夏」のなかで再生させられるのは、ひょっとしたら語り手自身だけなのではないか。
       「せよ」という命令は、自分にも向けられていたのではないか。
       それはすなわち、記憶の中の「あの夏」という箱を開く、ということへのためらいと意志のあらわれでもある。
       箱を開いて中を観測した瞬間に確率は収束し、猫が生きているか死んでいるかが確定する。
       ぼんやりとしていた記憶の中の、"誰か"の姿をよりはっきりと観測することも、それと同じことだろう。
       確定してしまうことへの恐れと、それでもまたあの「表情」を見たいという強い憧憬。
       永遠と瞬間の往復、そしてこのあえての「せよ」に含まれる揺らぎに、強烈な夏の輝きを見た。

       長くなったが、冒頭の写真に戻ろう。
       この写真が美しい理由はいくつもあるが、自分の思うところとしてはこれだ。
       矢川澄子の顔が隠れていることだ。
       どんな表情をしていたのか、写真を見ているわれわれにはもう確かめられない。
       それを知っているのは、このとき彼女の前にいた澁澤龍彦だけ。
       矢川も、その澁澤も、もうこの世にはいない。
       この写真という、箱だけがわれわれの前にある。
       「あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情」が入ったまま、永遠に開かれることのない箱が。

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