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    • 2018.03.29 Thursday
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    『シン・ゴジラ』を観に行ってきたよ

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      『パシフィック・リム』とか『マッドマックス 怒りのデス・ロード』とか、観測範囲で異常に盛り上がってるので義務感に駆られて観てみたらめっぽう面白かった、っていう映画がたまにある。
       で、ここ一週間くらいタイムラインで、『シン・ゴジラ』がその状態にあった。
       ただ自分はゴジラのことをよく知らない。シリーズも『ゴジラvsビオランテ』を公開当時に観ただけで、それも観たという事実を覚えているだけなので小学校だった自分はピンとこなかったらしい。
       そもそも特撮をまったくと言っていいほど通過しておらず、ゴジラという存在が持つ重みや伊福部昭の偉大さなども、肌感覚としてはわからない。
       そんな人間がうっかり観に行ってしまったわけですが。
       が。
       これがもう最高に面白かったんですよ……。正直ちょっと泣いちゃいましたよ……。
       観おわって家に帰ってから矢も楯もたまらず感想を書きはじめ、さっきようやく書き終わりました。
       以下、ネタバレ全開ですので観てない人は絶対に読まない方がいいです。

       キャッチコピーが『現実(ニッポン) vs 虚構(ゴジラ)』とあって、これがもうその通りと膝を打つ。
       ふつう、ゴジラのようなこの世に存在しないものと戦うにあたっては、同じくらい虚構的な存在を味方としてもってくることが多い。
       例えば別の怪獣だったり、対怪獣用にあつらえられた秘密兵器や特殊部隊だったり、超能力を持った人間だったり。
       でもこの映画では、善玉怪獣も秘密兵器も科学特捜隊も超能力者も助けてくれない。そもそもそんなものが存在しない。
       あるのは政治家や官僚や各種専門家などの人材と、自衛隊の兵力と、現代的水準の科学技術だけ。
       日本という国が、大したゲタもはかせてもらえないまま、現実にあるもののみを武器に、ガチンコでゴジラに挑まされるわけである。
       そのリアリティたるや、怪獣映画というより災害ドキュメンタリーじゃないかと思えるくらい。(パンフレットを読むとその取材の徹底ぶりが色々書かれていて面白い。)
       乱暴にくくってしまえば、この映画では"ゴジラ以外全部現実"というリアリティのレベルと、現実対虚構という対決構造がとことん、ひたすら突き詰められている。
       で、現実に存在するようなリソースだけでゴジラに挑むには、それこそすべてを限界まで絞り出したような総力戦になるわけだが、実際に国家を挙げてゴジラと戦うとなったら、その行いは"戦い"と名付けられるのだろうか?
       たぶんそれは一番ふさわしい言葉ではない。じゃあ何か?
       "仕事"である。
       この映画は、ゴジラに挑む政治家・官僚・専門家・自衛隊員などが一切の脇目も振らず、全力で"仕事"をする映画である。

       

       何が最高ってそこですよ。
       知性と交渉と実務処理能力で、未知の怪獣に打ち勝つんですよ。
       この作品における"戦い"は、ゴジラとの直接戦闘ではなくて、むしろゴジラが一時的に活動停止している間の調査・作戦立案・政治活動・インフラ整備なんですよ。
       残された材料の徹底的な分析から導き出される対応策の検討、それを実現するためのロジスティクスの整備、諸外国とのタフなネゴシエーション、意志決定の遅滞を生まないような横断的対応体制の構築……棚ぼた式の幸運を待つのではなく、人間の力を可能な限り無駄なく結集して、ゴジラが再び動き出した時にはすでにチェックメイト、という状態に近づけるべく、全員が自分のできることを120%の力でやる。
       愛や絆のパワーなどといったウェットで不確かなものには一切頼らず、ひたすら着実に、ただものすごいスピードで目標への道を拓いていく。
       こう文字にするとなんと地味なことかと思う。映像的にも、半分以上は会議会議デスクワーク会議といったありさまだ。
       でも、これがもうとんでもなく熱い。
       癖のある優秀な人材が、巨大不明生物特設災害対策本部・通称"巨災対"という組織のもとに結集し、一切の無駄なく恐ろしいテンポで、ゴジラを切り崩そうと奮闘するのだ。
       責任のなすりあいやら、人間関係のいざこざやら、見栄や利権の争いやら、権力中枢に必ず生える苔のようなくだらないものがすべてゴジラの衝撃で流されきったかのようだ。
       自分は組織に生きるサラリーマンだからか、この凄まじいまでに一心不乱なチームワークには、どうしても滾らざるをえない。こんな風に仕事ができたらどれほど素晴らしいだろう、と思わされてしまう。

       しかしみんな優秀だ……ヤシオリ作戦の準備が整っていたことを矢口に褒められた時、國村隼演じる統合幕僚長が「仕事ですから」の一言で済ませたのがいかにもプロでかっこよすぎた。

       

       この巨災対の無駄のなさは、映画としてはいわゆる"人間ドラマ"の切り捨てによって成り立っている。
       キャラとキャラの間にはふつう色んな矢印が飛び交い、それがねじれたり絡まったりすることでドラマが生み出されることが多い

       けれども、この映画ではその矢印がほぼまったく描かれない。
       おそらく登場人物それぞれの間に、様々な感情が行き来していたことだろう。ひょっとしたら恋愛感情が誰かと誰かの間に生まれていたりしたかもしれない。
       でも、誰が誰をどう思っているかなんか描写するヒマはない、とばかりにこの映画は突き進む。
       東京を、日本を、世界を救うというゆるぎない使命が、すべてに優先して登場人物たちを繋いでいるのだ。
       別に恋愛描写が悪いとか言いたいわけじゃない。必然性があればどんなものが入ってもいい。
       ただ、この映画は明らかにそういう要素を必要としていないし、今の日本映画の状況からして大変偉大なことに、そういう無駄なものをすべて排除することに成功しているのだ。
       今の日本でも、人間関係をことさら描かずともここまで濃厚にドラマを描いた面白い映画を作れるし、ヒットさせることができる。
       それを証明しただけでも本当に偉大な作品だと思う。

       

       こう書くとじつにドライな映画と思われるかもしれないが、根底にあるのは人間への信頼だと思う。
       後半は、国連軍が東京に核を使ってゴジラを滅殺するためのカウントダウンが迫る中、矢口たち巨災対が必死にその期限を引き延ばしながら対ゴジラ作戦の完成を急ぐ展開になる。
       核兵器というのは、この現実に確かに存在するものであるけれども、最終的には間違いなく人間の手に余る代物だろう。
       もっとはっきり言うと、これは人間がすでに持っているゴジラだと思う。(というか、ゴジラはゴジラで原発でもあり、さらに極端なことを言えば歩く3.11とさえ言えてしまうだろう。)
       その"ゴジラ"同士の衝突がもたらすものは、あまりに大規模で非人間的な被害を伴う対消滅だ。
       核が投下されれば、日本がすでに経験している、広島と長崎の大破壊をさらに上回る悪夢が展開されることとなる。
       ゴジラとの戦いは、核兵器というゴジラを使わずとも人間はゴジラを倒せるのかという、人間倫理の存亡をかけた戦いになるわけだ。
       核使用の安保理決議が下されたことを矢口に伝えたのは、竹野内豊演じる赤坂だった。
       国際世論や東京壊滅後の日本のことを現実的に考えて諭す赤坂と、それでもまだぎりぎり残っている理想的な道を模索しようとする矢口。
       正直、あの状況下では赤坂の話す政治的判断が間違っているとは思えない。その前段階で、ゴジラが無性生殖で増える可能性があること、今後の進化によっては有翼化して海を越えてしまう可能性すらあることが示されており、国際社会から見たら合理的な判断ともいえる。
       でもそこで巨災対のメンバーは諦めずに、その理想を徹底して現実化するのだ。それも、じつに"現実的"に。
       総理を動かして国連安保理の常任理事国に核投下の引き延ばしをロビイングして時間を稼ぎ、その間に各国研究機関の力を借りてスパコンを連結して解析を高速化させ、全国のプラントなどに協力を仰いでゴジラに投与する抑制剤の製造を間に合わせる。
       この彼らの剛腕ぶり、そしてすべて手を打ったうえでの決死の作戦遂行は涙なしには見られない。
       そして彼らは勝つのだ。
       その勝ちは決して完全勝利ではない。ゴジラは凍結されただけで、消滅してはいない。不発弾のように東京のど真ん中に存在し続ける。
       それはそのまま、今の人類と核兵器・原発の関係性とパラレルになっている。
       これらもゴジラと共存していかなければならない、でも人間にはそれができる、という、ビターだけれどもかすかに希望の残る結末。それはまさしく、既に3.11というゴジラに襲われた日本を叱咤するメッセージであり、人間賛歌と呼ぶにふさわしい。
       奇しくも今日は8月6日だった。この日にこの映画を観られたことは、自分にとっても大きな意義のあることだったと思う。

       

       以下、気になったポイントをいくつか箇条書き。
      ・最近読み終えた速水健朗『東京β』に、怪獣映画でどのランドマークがどう壊されていたかを論じた章があったので、果たしてこの『シン・ゴジラ』ではどこがぶっ壊されるのか興味津々で見て、ある事実にすごく驚いた。
       この映画には一切、東京スカイツリーが出てこない。
       今東京でぶっ壊される運命にあるランドマークの筆頭はこれだと思ってたんだけど、なぜだろう?
       あれを映すにあたって権利関係が色々めんどくさいという話をどこかで見たような記憶があるけども……。

       

      ・色々ツッコまれていた石原さとみのキャラは確かに登場時ちょっと笑っちゃったけど、好きです。親の七光りを最大限利用する覚悟のある、実力を備えた二世キャラっていいですよね。
       市川実日子は、最後の最後に半減期が短いことがわかった瞬間にこぼした微笑みがやっぱりグッときた。
       そういえばヤシオリ作戦成功時に、それを見ていた巨災対の面々が誰ひとりとして歓声をあげず、その代わり深々と安堵のため息をついて、そのまま粛々と仕事に戻るのが超プロフェッショナルって感じでカッコよかったなあ。

       

      ・ていうかゴジラ怖い。ちょう怖い。おれの中のゴジラ像は本家というよりバンプレストのゲームソフトに登場する、2頭身にデフォルメされた善玉キャラだったので、あんなに容赦ない大災害の源だと思ってませんでしたハイ。

       これから今までのシリーズも見てみようかな……。
       しかし最初出てきたときはゴジラだと思わなかったよ……目がキモいよ……。
       ほんとあんなんがいきなり自分の住んでる街に現れたら、とシミュレートしてしまうような怖さがあった。
       そして米軍攻撃の時の覚醒もシャレにならんかったな……ようやく傷をつけられたと思ったとたんにだばだば火を噴いた挙句プロトンビームぶっ放した時は、その光景を目の当たりにしている東京の人々と同じような絶望感を覚えた。
       というか、最初は東京がぶっ壊される模様に萌えるかと思ってたんだけど、実際見たら大災害の中継映像を見ているような恐怖感がむしろ先に立ったっす。


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