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    • 2018.03.29 Thursday
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    只石博紀監督『季節の記憶(仮)』を見てきた

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       1/22〜26まで新宿のK'S Cinemaでかかっていた、只石博紀監督『季節の記憶(仮)』という映画を最終日滑りこみで見に行ってきた。

      http://www.kisetsunokiokukari.com/
       いやあ、久しぶりにブログを立ち上げてしまうくらいに、異常な映画体験だったんですよこれが。

       もう本当に、見ている最中ずうっと、「これはなんなんだろう?」と頭が回転しっぱなしだった。
       自分はあまり映画を多く見ている方ではないのだけど、逆にそういう素人だからこそか、この問いが浮かんで離れなかった。
       今見ているこれは、映画なんだろうか?
       そしてその問いは、映画ってなんだろう、というさらに大きな問いを必然的に引き連れてくる。

       

       この「映画」の異常さをわかってもらうには、まずどんな手法で撮られたのかを説明するのが手っ取り早い。
       タイトルにもあるように、夏・秋・冬・春の順に、それぞれの季節に撮った映像を各30分のチャプターとしてまとめた作品なのだけど、各篇とも共通の手法で撮影されている。
      1.撮影者は出演者。専属のカメラマンは存在しない。
      2.ノーファインダー。撮影中、ファインダーを一切覗かない。かつ、「カメラを撮影機でなく『モノ』という意識で扱う」というルール。
      3.30分ノーカット。
       そのうえ、各篇とも目立ってフィクショナルなプロットは存在しない。

       基本的には、知り合いらしい数人が集まってうだうだと歩いたり駄弁ったりしているだけ。

       なんでもない一日にたまたま撮影したホームビデオ、のように見える。
       この縛りが重なるとどういう映像があらわれるのか?
       見ていただいた方にはわかると思うけど、観客に(精神的に、というよりはもはや身体的に)かなりの負荷を強いる映像ができあがる。
       なにしろ出演者がかわるがわるカメラを持ってはバトンタッチするように撮影しているから、カメラは劇中の大部分で移動している。
      「モノ」としてカメラを扱うルールがあるので、撮影者はそれぞれ手持ちのカバンみたいにぶらぶらカメラを持って歩く。
       ファインダーを覗けないから、ぶらぶら持ってるカメラの映像がブレようが、フォーカスが対象からズレようが確認しようがないまま撮影は進む。
       そのうえノーカット。それらのブレやズレは一切消されることなくスクリーンに映される。
       結果として、観客は「ひたすら手ブレし続け、アングルがキマッていない、見知らぬ他人のホームビデオのようなもの」を30分×4セット見続けることになるわけだ。
       音声もカメラマイクのみで収録されているので、ゴオゴオとマイクを震わす風の音や車の走行音、カメラが地面に無造作に置かれるゴツッという音が、ありのまま、それなりに暴力的に耳へ飛びこんでくる。
       たまたま劇場に入る前後に、ときおり発生する神経痛のかなりひどいやつに襲われたせいもあって、最初の夏篇はカメラ酔いと激痛と混乱にさいなまれながら見る羽目となった。

       映画を見てる最中に「死にそうだ」と思ったのは、大学時代に高熱を出してるくせにクストリッツァ「アンダーグラウンド」を見てしまった時以来である。

       

       でも、結局2時間しっかりこの映像を見続け、終わったあとは只石監督に質問さえして、謎の充実感にとらわれながら帰り、いまこんなブログを1年ぶりに書いている。

       この作品の持っているなにかが、確実に自分を駆り立てている。それはなんだろう。

       

       最初の問いに戻ろう。
      「今見ているこれは、映画なんだろうか?」
       この映画には、あらかじめ「映画」が備えているものと、自分が暗黙のうちに思いこんでいた要素がことごとく欠けている。
       例えば演技、プロット。

       さきほどホームビデオと称したが、出演者たちの様子には、いかにも演技らしいドラマチックさはさっぱりない。

       ただ単に夏の河川敷でピクニックしながら駄弁っていたり、友達と飯を食いに行く車の中で駄弁っていたり、とにかく「知らない誰かのただの一日」に見える。

       冬篇は若干の例外だが、起承転結に類するプロットの転換もほぼ存在しないに等しい。
       例えば編集。

       ノーカットの時点で編集されていない、と考えるのは安易かもしれないが、各篇の30分間に限ってはおそらく一切の編集がなされていない。

       撮られたありのままの映像がごろんと提示されているように見える。
       例えばカメラフォーカス。

       ふだん見る映画では、登場人物や背景など、「監督やカメラマンが映そうと思っているもの」がちゃんと映っている。

       この作品では、それがほとんどちゃんと映っていない。話し相手の顔でなく下半身が延々映っていたりする。
       ノーファインダーということは、撮影者もしくはそれを指示する監督は「これを撮ろう」という意志を示すことはできるが、ほぼ必然的にそれを撮ることには失敗する、ということだ。
       そしてノーカットということは、被写体から被写体へカメラが移動する際に、通常ならカットされるその移動行程がそのまま映し出されるということだ。
       あえて乱暴に言ってしまえば、この映画はほぼ全篇にわたって、カメラの「移動」と「失敗」で構成されているということになる。

       一般的な映画が、(作品として成功しているかは別として)撮影に「成功」した映像のみで組み立てられているのに対して、『季節の記憶(仮)』はそれ以外の「失敗した」映像によって組み立てられた作品と思える。

       などと書くと批判しているように思われるかもしれないが、自分はむしろその「失敗している映像」だけで構成されていることこそが、この作品を成立させているキーじゃないかと感じている。

       この作品が語りたかったことは、おそらくその「失敗している映像」を通してのみ明らかにされる質のものではないか。

       

       丸というかたちを描き出すときに、どういうやり方があり得るだろうか。
       いちばん簡単なのは、丸というかたち自体を○と線で書いてしまうことだ。もしくは、ぐるぐると塗りつぶして最終的にその輪郭が●となる、というやり方もある。
       ただ、描くべき紙の、丸以外のすべてを塗りつぶして、最後に残った部分が結果的に○のかたちとなっている、というやり方も可能なはずだ。
       「それ以外」を描くことで「それ」を浮かび上がらせる。

       『季節の記憶(仮)』は、「映画以外」を描くことで「映画」を浮かび上がらせるような作品なんだと、自分には思えてならない。

       

       もうひとつ、不思議に思ったところがある。
       この映画はいったい誰の作品なのだろうか?
       作ろうと思い立って実行した只石監督の作品、とするのが普通だろう。

       だが、この作品に脚本はない。

       監督は出演者=撮影者におおまかな会話の流れとカメラの動きなどを指示するのみで、あとはそのまま撮影者にゆだねてワンテイクで撮ったのだという。

       ではこの作品は「只石監督の作品」であると言い切れるのだろうか?

       彼の意志はどこまでこの作品に通底しているのだろうか?

       そもそもそれ以前に、映画は監督の作品であると自明のことのように言ってしまって本当にいいのだろうか?
       もしくは、ノーカットで撮影した出演者たちがこの映画を作っている、とも考えられる。

       スタッフロールやタイトルコールを除けば、この作品を構成している映像は彼らが出演しながら撮影した30分ずつのノーカット素材、それだけだ。

       撮影するものとされるもの、その両方を兼ねている彼らこそが、この作品の創作にあたって最も大きなウェイトを占めているのではないか。

       でも、彼らの作品、と言ってしまうことへの違和感がどうにもぬぐえない。

       この映画を形作っている意志のようなもの、それの源泉はなんだろう。
       残る容疑者はふたつ思い当たる。
       この作品で数少ない、作為的な移動を行いつつ、ノーファインダーの手法によって偶然をもはらんだ「カメラ」。
       もしくはその、監督と撮影者の意図を超えてこの映像をカメラに残させた「偶然」そのもの。

       でもそこまで思い至ると、ひるがえってそれが現れるようにこの手法を採用した只石監督の意志こそがこの作品に輪郭を与えているんだろうか、という気がしてくる。
       しかしそこからまた思考のループが始まる。
       推理小説に出てくる探偵のようにぐるぐる考えてしまう。
       この『季節の記憶(仮)』という作品の「犯人」は誰なのか?

       もちろん、全員が共犯者だろう。とはいえ主犯はきっといるはずだ。映画を映画たらしめる犯人が。

       それを考えることによって、無謬の存在だと思われた映画そのものの化けの皮がはがされていく。

       

       いや、それ以前に。

       この作品が雄弁に「映画とは何か」を語っているとして。
       この作品自体は、果たして「映画」であると言えるんだろうか?

       「映画以外」であるからには、やっぱり「映画」じゃないんだろうか?
       確かに鑑賞中、これまでに見てきた映画が、どんなに苛烈な内容だったりグロテスクなゴア描写であったりしても、いかに観客に対して優しくサービス精神にあふれていたかを、体で思い知らされた。

       映画を見ているとき、自分はこれまでずっと、びっくりさせられはするがレールを外れることはないアトラクションのシートで、お客様として安全にもてなされていたわけだ。

       まずこの作品が「映画」からはぎ取ったのは、映画が見に来る観客に対しておのずと備えているホスピタリティと言えるかもしれない。
       もしくは、観客の「観客ぶり」とでも言うべきか。

       この作品を見るには、出されたものをただ楽しく見てああ面白かった帰ろう、では済まされない。もてなすのではなく、揺さぶりをかけてくる。

       映画の観客というよりむしろ、生の自然に対する観察者のようなスタンスで映像を見ることを強いてくるのだ。

       

       でもなんだか、自分はどうにも、この作品がとても「映画」であるような気がしてならない。
       上映後、只石監督と少し話をさせていただいたのだけど、そこで彼は 「この映像をもしYouTubeにアップしたとしたら、それこそホームビデオと思われるかもしれない」という話をしつつ、一方でこの映像をどこに出すかの例としてデュシャンの『泉』に言及した。
       ありふれたものが、置かれる場所と、置く人物の意図によって、本来の機能とは異なる意味と文脈を備え始める。

       それはもちろん映画でも例外ではない。
       そこで流された映像を映画たらしめる場所はどこだろうか。
       身も蓋もないけれど、それの最たるものは映画館だろう。
       いそいそと切符を買って、同じものを見に来た知らない人たちとロビーで会話もせずにそわそわと他作品のチラシをめくる。

       体が沈みこみそうな椅子に座って、赤い空間で真っ黒いスクリーンを見つめながら、あたりが暗くなるのを待つ。
       いよいよ照明が落ち、視界の注意力のリソースすべてがスクリーンに凝縮され、周りの空間が音響によってのみ認識されるような、五感のいびつなイコライジングが施されるあの場所。
       そこで僕はあの「映画以外でできた映画」を見たのだ。
       それが最も異常で鮮烈な「映画」体験でなくて、いったいなんだというのだろう?

       

       ただ、もう一回見るかと言われたら、正直少し躊躇する。

       臓器移植を行った際、移植者と提供された臓器の間でしばしば拒絶反応が起きるという。

       それは他人の記憶を移植されたとしても同様じゃないだろうか。

       この映画を頭の中に移植されて思ったのは、「他人の30分を生きるのはなんとしんどいことだろうか」ということだった。

       そのしんどさはとりもなおさず、この『季節の記憶(仮)』が、たとえまがいものであろうと誰かの季節の記憶として機能したことのあらわれでもあるのだろうけど。


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