<< 只石博紀監督『季節の記憶(仮)』を見てきた | main | 世界旅行としてのゲーム >>

スポンサーサイト

0
    • 2018.03.29 Thursday
    • -
    • -
    • -
    • -
    • -
    • by スポンサードリンク

    一定期間更新がないため広告を表示しています


    人間からは逃げられない

    0

       藤栄道彦『コンシェルジュ』に、主人公らが勤めるホテルを定宿にしている漫画家のもとを、ドイツから漫画家志望の女の子が訪れる回があった。

       確かこの女の子は本当のところ、漫画をとにかく描きたいというよりは、人間関係のわずらわしさから逃れるために漫画家になろうとしていた。そんな彼女に対して常連の漫画家が、諭すようにこんなことを言うのだ。

      「人間からは逃げられないんだ」

       手元にそのコミックスがないので正確ではないのだが、この言葉はずうっと頭のどこかに引っかかっている。

       というのも、自分もわりかし、人間から逃げたいと思い続けていて、そのたびにこの言葉に呼び止められているからだ。

       

       正直なところ、人間と接するのってめんどくさすぎやしませんか。

       だって結局のところ他の人間がなにを考えているのか、なにを感じているのか、そのうえでなにを投げかけるべきなのか、根本的にはその正解はわからないわけで。

       どんな相手に対してもずうっと探り探りボールを投げてはまたキャッチするのを延々と続けないといけない。

       しかも1対1でやるとも限らない。ひたすらいろんな方向にボールを投げ、いろんな方向からのボールをキャッチし続ける。

       無限に続く原っぱで、晴れていようが雪が降ろうが、見当も力加減もぶれまくってるけど間違いなく自分に対して投げられているボールを追いかけたり、明後日の方向から自分の脳天めがけてすごい勢いで飛んでくるボールをどうにかキャッチしたりしながら、しっくりくるキャッチボール相手を追い求めたり、幸運にも見つかった相手とできるだけボールを投げかわしたりし続ける。一生。

       疲れる。とても疲れる。ボールに飽きる。ずっと足元のたんぽぽとか見てたい。

       

       そもそも自分は、日々のできごとや、それをきっかけに自分の中に沸き起こった情動を物語にしたい、というモチベーションがめちゃくちゃ薄い。

       自分の身に起こったことなんぞ可能な限り創作の糧にしてやるものかと考えている。(そもそも記憶力がひどく悪いのでネタにする以前にほとんどのことを忘れ去るのだが)

       でも、実際になにかを書こうとすると、そういった自分の情動から逃れることがものすごく難しいことだと実感する。

       

       まずプロットを立てようとすると、たいてい「人物」が「行動」してしまう。

       「人物」が「行動」するには「動機」が必要だ。動機がない、というのも一種の動機だろう。

       そんなもの、あまりに人間的すぎる。逃げたい。

       こうしてまずプロットが消え去る。

       次に、できれば「人物」も消したい。

       ひたすら風景だけを描写する、というのは手だが、それだと描写する対象を取捨選択する自分の人間性は消えない。ただそこまでのレベルにいくとまた別の話になってくるのでいったん、人間ではない別のものを登場させる、という方向で考えてみる。

       たとえば、人間的なロジックでは理解できないような存在であればよくないか。もう一切の情動とか関係なし。

       でもそこには根本的な限界がある。

       人間的なロジックでは理解できないような存在の行動ロジックをどうやって人間が組み立てて書くことができるのか?

       難しい。ただそういう物体としてそこに在る、というのならギリギリいけるかもしれない。

       個人的に、こういう存在としてパッと思い浮かぶのは、山田芳裕『度胸星』の、火星に現れる謎の多次元体・テセラックだ。あれはいい。見た目から行動から、とても「人間の認知を一段超えたところに存在しているなにか」感がビンビン伝わってくる。

       じゃあそれをどうやって作品にしよう?

       火星でススーッと動いたり拡大縮小するテセラックの様子だけを、ただカメラがひたすら追い続けている、とか。

       

       ここで問題。

       この作品は、面白いんでしょうか?

       悲しいことに、とても悲しいことに、ほぼ間違いなく「物語」としては面白くないっぽいんですよ。アートとしては面白いものになりえるかもしれないけど。

       少なくとも、『度胸星』が面白いのはその謎の存在と、個性的なキャラクターたちが対峙するからなのであって。

       人間を排除してテセラックだけずっと描き続けてたら、『度胸星』はたぶんあのような傑作たりえなかったわけで(というかそもそもヤングサンデー廃刊を待たずしてこの世から存在を抹消されていることは想像に難くない)。

       

       つまるところ、「物語」としての面白さには、どうしても「人間」が付いてきやがるんですよ。

       

       それに、これまた悲しいことに、どっちみち考えている自分は人間だし、考えて生み出そうとしている「人物」も独立した人格なんですよね。

       百歩譲って「人物」の登場を許可したとして、じゃあいざ作品を成功させるためには、その人物をみごとひとつの人格として存在させる必要がある。

       その人物がイコール自分であれ、それとも自分とは別の人間であれ、作品内に登場させるには、そいつがどういうやつなのか、考えたり実際に書いたりしてみながら、知ろうとしてみる必要がある。

       これってどう考えても、他人とのコミュニケーションなんですよね。

       他人のことを想像して把握しようとすること、それに成功したり失敗したりすること。

       頭の中のべつの原っぱで、そこにいる誰かとキャッチボールをすること。

       創作のための想像は、どうにも人間的存在とのコミュニケーションと非常に近しい。

       その存在が実在かどうかはどうでもいいことだ(そもそも自分というのは最も身近な他人のことじゃないだろうか)。


       それに、そもそもなんで自分は、人間めんどくさいいやだ逃げたいと思いながら、「物語」を求める表現形式を選んでしまったのか?

       ただ文脈や意味などもなく物体として存在しているなにかを作るような、詩や現代アート的な表現形式を選ばなかったのは?

       結局のところ、自分自身が最終的には「物語」とか、ひいては「人間」を求めてしまっているからだろう。

       その意味で、『コンシェルジュ』に出てくる漫画家が語ったことは、創作者の発言としてもものすごーく説得力があった。

       物語を求めたら人間がひっついてくるし、人間である以上物語を求めずにはいられない。

       人間からはそう簡単には逃げられないのである。


      スポンサーサイト

      0
        • 2018.03.29 Thursday
        • -
        • 00:35
        • -
        • -
        • -
        • -
        • by スポンサードリンク

        コメント
        コメントする









        この記事のトラックバックURL
        トラックバック
        profile
        calendar
             12
        3456789
        10111213141516
        17181920212223
        24252627282930
        << June 2018 >>
        recommend
        recommend
        Twitter
        selected entries
        categories
        archives
        search this site.
        recent comment
        • 本当の嘘つきは自分が嘘をついているという自覚がないそうです
          伊藤螺子 (12/11)
        • 本当の嘘つきは自分が嘘をついているという自覚がないそうです
          調布在住 (12/05)
        links
        PR
        others
        mobile
        qrcode
        powered
        無料ブログ作成サービス JUGEM