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    • 2018.03.29 Thursday
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    外野の短歌中継:第3回 あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

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       まず、ある写真の話からはじめようと思う。


       日射しを弾く波を遠景に、撮られていることなど知らないまま、ふたりだけの花札遊びを続ける夏の中の男女。
       写真家・細江英公が、由比ヶ浜で花札に興じる澁澤龍彦と矢川澄子をとらえた一枚である。
       1965年に撮られた写真だそうだ。この仲睦まじいふたりは、約3年後に破局を迎えることとなる。
       この写真がとても好きだ。自分はふたりの関係がどうなっていったか、その顛末をあまり詳しくは知らないが、もう永遠に失われた一瞬のまぶしさに、思わず胸を打たれる。
       今回扱うのは、この写真にキャプションとして添えたいくらいの一首だ。

      あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ / 小野茂樹(『羊雲離散』所収)

       これを読んであの写真を連想したのは、もちろん過ぎ去って戻らないふたりの「あの夏」という共通要素はあるのだけど、「数かぎりなきそしてまたたつた一つ」という表現が、とても写真的なせいでもある。
       人生が、たとえば無限のページがずっとめくられ続けるパラパラ漫画のようなものだとしよう。
       言い換えれば、われわれの生きる時間はすべて瞬間の積み重なりでできている。
       写真はその一瞬、そのページをぺりっと一枚切り取ることに近い。
       短歌もそうじゃないだろうか。少なくともこの一首についてはそう思える。

       では、この歌(とあの写真)における、“瞬間”のどういう切り取り方がそう思わせるんだろうか。
       まず歌の方から見ていくと、最終的に「表情」に至るまでの絞りこみ方がとにかく素敵だ。
       小野茂樹が無限の瞬間の山から、まずがっさりと「あの夏」をひっぱり出す。
       この時点で半分勝ったようなもんである。「あの夏」は、たいてい誰にとっても「あの夏」だ。それは読者の記憶に積み重なったおびただしい数の瞬間のうち、遠くまぶしい季節のひと山を指す。
       だが、無限の中から取り出したひと山は、はたして有限なのだろうか。
       小野茂樹は即座にその答えを出す。
       取り出した「あの夏」の瞬間のひと山が、すでに「数かぎりな」いことを示すのだ。
       ∞を割り算しても答えは∞になるのと似ているだろうか。
       有限なはずの「あの夏」が瞬時に無限という姿をあらわすのである。

       そもそも無限、永遠という感覚と一番相性がいい季節は夏だと思う。
       春と秋は、夏と冬をむすぶ変化の過程という性質がもともと強いせいか、あまり永遠という時間感覚と仲がいい印象はない。永遠の春も永遠の秋も、じつに暮らしやすくて素敵なもんだと思うが、そこにその季節の美しさはあるだろうか。例えば桜も紅葉も、永遠にあるからではなく散りゆくことにその美しさは支えられているんじゃないか。
       永遠の冬はどうだろう。なんだか一気に、核戦争か隕石で世界が崩壊した後っていう類のディストピアSFめいてくる。人類は9割以上が死に絶えて数少ない生き残りは地下シェルターで暮らしている。寒い。つらい。食糧がない。(場合によっては詩情はあるが。)
       それとくらべて永遠の夏だ。Endless Summerだ。もうその組み合わせ自体が、とめどない憧憬とセンチメントを生み出す魔法の結合じゃないか。それに、繰り返しに近いが永遠の夏として続く夏を思い浮かべろと言われたら、たいてい誰にとってもそれは「あの夏」になる。

       だが、ただ永遠の夏をうたった"だけの"歌だったら、陳腐な凡作止まりだったんじゃないか、とも思う。
       この歌は、人のセンチメントにほぼ自動的に訴えかける、そんな強力なモチーフに依存するだけでは終わらない。
       まず「そしてまたたつた一つの」という第三・四句が、ありふれた夏のイメージから脱する、同時にいっそう極端にブーストする原動力となっている。
       ここまで限定から見出される無限の話をしてきたが、この第四句で再び、無限からの限定の動きがあらわれる。しかも今度は、「たつた一つの表情」という最上級の限定だ。
       人の顔はひとつなわけで、人が一度に浮かべられる表情はひとつだけのはずだ。でもこの歌のなかでは、「そしてまた」という第三句によって、「数かぎりなき」という永遠と「たつた一つの」という瞬間が、同時に存在していることになる。
       本来なら相反するものである永遠と瞬間が、同時に存在しえる時間とは、いつなのか。「あの夏」である。
       自分は量子力学に疎いので非常にいい加減な知識しかないが、シュレディンガーの猫という有名な思考実験がある。ミクロな粒子の発生を引き金にガスが発生する箱の中に入れられた猫は、観測されるまで生きた状態と死んだ状態が"重なり合って"いるのでは、というものだ。
       この歌を読むとそれを思い出す。この「表情」はシュレディンガーの猫だ。
       「数かぎりなき」そしてまた「たった一つ」という状態が重なり合っているのは、「あの夏」という、もう閉じられた箱の中だ。
       あまりにロマンチックではないか。

       この歌の、文字通り最後のキモが「せよ」だと思う。
       なぜ命令形なのだろうか。
       まずひとつには、その「表情」をする主体が語り手自身ではなく、他の誰かの表情であることを示すためだろう。
       語り手が、数かぎりなくその表情を見た"誰か"だ。
       でも、それなら「見せて」などと懇願するかたちや、「見たい」などの願望のかたちもありえただろう。
       なのになぜ命令形を、小野はあえて選んだのだろうか。
       自分にはどうにも、そこに小野の強い意志が反映されているように思える。「あの夏」という箱を開こう、という意志が。
       先ほど、「せよ」は"誰か"に対する命令という意味を含む旨書いたが、それは厳密に言うと違うかもしれない。
       封じられていた過去の記憶を、録画映像のように再生せよと自らに言い聞かせているようにも感じるのだ。
       「表情」は"誰か"の表情だが、その表情を「あの夏」のなかで再生させられるのは、ひょっとしたら語り手自身だけなのではないか。
       「せよ」という命令は、自分にも向けられていたのではないか。
       それはすなわち、記憶の中の「あの夏」という箱を開く、ということへのためらいと意志のあらわれでもある。
       箱を開いて中を観測した瞬間に確率は収束し、猫が生きているか死んでいるかが確定する。
       ぼんやりとしていた記憶の中の、"誰か"の姿をよりはっきりと観測することも、それと同じことだろう。
       確定してしまうことへの恐れと、それでもまたあの「表情」を見たいという強い憧憬。
       永遠と瞬間の往復、そしてこのあえての「せよ」に含まれる揺らぎに、強烈な夏の輝きを見た。

       長くなったが、冒頭の写真に戻ろう。
       この写真が美しい理由はいくつもあるが、自分の思うところとしてはこれだ。
       矢川澄子の顔が隠れていることだ。
       どんな表情をしていたのか、写真を見ているわれわれにはもう確かめられない。
       それを知っているのは、このとき彼女の前にいた澁澤龍彦だけ。
       矢川も、その澁澤も、もうこの世にはいない。
       この写真という、箱だけがわれわれの前にある。
       「あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情」が入ったまま、永遠に開かれることのない箱が。

      現時点での自選短歌30首

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        今年頭から短歌を詠み始めて、Twitterに放流した数が気づけば200首を超えた。
        決して早いペースとは言えないが、飽きっぽい自分にしてはそれなりにきちんと続いている。
        そのログは、ツイログの短歌タグでまとめているのだけど、さすがにさかのぼるのが億劫になってきた。
         http://twilog.org/thunderheadhour/hashtags-%E7%9F%AD%E6%AD%8C
        というわけで、以下30首が現時点での選抜メンバーです。ご笑覧ください。
         


        今ちょっと気づいたんだがおれたちはペットショップの売れ残りでは

        この街にミノタウロスを放ちたい迷ってることばれないように

        洗剤のCMの皿のすみっこの数粒の菌のようないいわけ

        死を恐れセックスをやめたぼくたちの骨のかわりに糸をください

        いいくにをつくらなくてもよいのだと鎌倉幕府のデータが消える

        夜があけてきっと誰もが歯をみがくおとぎ話のめでたしのさき

        空をゆくあなたの影に轢かれたと気づかないまま海辺の街は

        ふたりして日々をつらねたある朝にきっと新たな動詞をつくる

        もうだれも思い出さない平面で今もほほえむ美少女と風

        とりいそぎタイムカードは押したから猫のあくびのまねしていいよ

        母子像は背後をとられているなどと知らないままに服がつるつる

        たそがれにのたれ死んでる手袋がまねようのない呪印を結ぶ

        水中の万年筆のペン先のあおくゆらめくほどけゆくいま

        日暮里の駅に金魚の池がありまたおにぎりのごみが浮いてる

        ショッピングモールのゲームセンターでたしかにぼくは海鳴りを聞いた

        とんかつのように素敵なできごとが必要なんだ霜踏みしめる

        雨の日のベランダにいて世界はもうよっちゃんのうちみたいな匂い

        あのころのきみそっくりな人見たよ知らないやつと話していたよ

        色欲の色はなにいろかと問われ虹とこたえるあのひとの息

        a prioriであるかのような顔をしてミネラルウォーター買うんだろまた

        紅しょうがついてる森をふたによけ紅しょうがだけごはんに戻す

        なんかもうおかだ引越センターのトラのマークを見るだけで泣く

        はじめからサイズのずれているシャツを着つづけるのに似ている愛だ

        もうすでに死んでいることわからずにインターネットばかり見ている

        あなたにもさびしいうたの中でだけ会うようにしてるひとがいますか

        はじめからとべやしないとわかっててまだ風を待つ鉄の鶏

        どうしてもバッドエンドにしかならずそのくせゲームオーバーがない

        ぬるま湯に浮かぶ娘と妻の垢 とおい銀河のように見ていた

        メキシコにきっとたくさんいるはずの麻薬と関係のない人たち

        ぼくたちはすでに書きつくされていてせめて芳一の耳をもぎたい

        外野の短歌中継:第2回 おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ

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           第2回は、一読したときなんかわけわかんない形の鈍器でぶん殴られたような衝撃を受けたんだけど、その鈍器がどんなものなのか今までわけわかんないまんまで済ませてきたので、いい加減現場検証を行うべく選んだ。

          おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ / フラワーしげる「死と暴力 ア・ゴーゴー」(『ビットとデシベル』所収)

           フラワーしげるという歌人の存在は短歌を始めるちょっと前から知ってはいたが、もともと自分は小説家・翻訳家の西崎憲の読者であり、彼のTwitterアカウントで「今度これが出ます」と『ビットとデシベル』の告知がなされたときは驚きで鼻毛が抜けるかと思った。
           すぐに買い求めてページを開いたとたん「死と暴力 ア・ゴーゴー」という連作タイトル(?)が目に飛び込んできて、直後の一発目にこれがくる。
           なんだろう、この否応なさは。
           いきなり目の前に自分を喰おうとしている何かが現れた感じ。
           得体のしれないものが唐突に、そこにいるのが当たり前のような顔をして出てくる、というのは個人的にはとてもグッとくる要素なのだけど、脳天をどっかんどっかんぶん殴られてる最中でも、その相手をじっくり見つめることはできる。順を追ってかみ砕いていきたい。

           まずこの短歌はほとんど、「おれ」=「おまえの存在しない弟」=「ルルとパブロンでできた獣」の自己紹介だけでできている。
           だがこれを単なる自己紹介から逸脱させているのは、冒頭の「おれか」の一言だ。
           仮に「おれはおまえの存在しない弟だ」からこの歌がスタートしていたらだいぶ短歌の定型に近くなるが、フラワーしげるはわざわざ定型を強引に崩してまで、冒頭に「おれか」を付け足している。
           それによって何が起こるか。この自己紹介は、「おれ」が誰かに素性を問いかけられて言った答え、という性質をはっきりとまとうようになる。
          「おれか」がなかったら、この「おれ」が誰にも何も聞かれていない状態から勝手に語り出しているようにも読めてしまうが、この冒頭の三文字が置かれることによって、この短歌の中では言葉にされていない“問いかけ”と、それを発した“他者”が生まれる。
           定型崩しの暴力性のみならず、目に見えない存在、文字になっていない言葉がほのめかされることで、この歌は最初から水面下の巨大な氷山のような広がりと、不穏な気配をはらんで動き出す。
          (そもそも、たった31字で自分と世界を切り取る短歌という形式は生まれつき、その言葉にされない広がりこそが眼目であるわけだが。)

           では、その質問をした“他者”は誰か。
           直後に現れる「おまえ」としておくのが素直な読みか。
           それがこの歌を読んでいる読者なのか、はたまた別の誰かなのかは明示されていないが、これは自分だろうかと読者が一瞬でも思うことこそが重要だろう。
           その呼びかけによって、読者はこの短歌の中に引きずり込まれ、「おれ」の前に立たされるはめになる。
           そして「おれ」は読者に対して、「おまえの存在しない弟だ」と、何やら不気味なことを言い始める。
           なぜ不気味だと思うのか。
           それは、「存在しない弟」は、「生まれなかった弟」とも言い換えられるからだろう。
           弟は、誰にでも存在する可能性がある。母が自分のあとに生んだかもしれない生命。「おまえ」の母親が「おまえ」のあとに「おれ」を生むことだってありえただろう。
           だが、「おまえ」の今いる世界では、「おれ」は生まれなかった。たとえこの歌を読んだ読者には現実に弟がいたとしても、この「おれ」は生まれなかったのだ。
           さらに踏み込んで言うと、この「弟」には「そもそもはじめから存在しなかった弟」と「生まれずに死んだ弟」のふたつの含意がある。この「おれ」は、あらかじめ“無”と“死”を背負いこんでいる。
           そしてこの歌の中で、その「存在しない弟」が、ありえたかもしれない過去・未来から、枝分かれした世界の壁を乗り越えて、いきなり眼前に現れるのである。
           大げさな言い方をすれば、並行世界から襲撃を受けたようなものだろう。歌に表れる自己同一性というのはこれまで短歌でも非常に大きなテーマとして君臨してきたと思うのだけど、この歌では自己同一性どころか世界同一性が揺らいでいるわけだ。

           そこにとどまらず、「おれ」はさらに「ルルとパブロンでできた獣だ」と畳みかけてくる。もうめちゃくちゃである。
           強烈だけども非常に抽象的な単語ばかり発されてきたところで、いきなりルルとパブロンという、実在する風邪薬の名前がブッ込まれてくる。前回も同じようなことを書いたけども、この単語のレベルの飛躍でさらにドライブがかかっている。
           それにしてもなんなんすか「ルルとパブロンでできた獣」って。錬金術ですか。
           そういえば前に偉い錬金術師が「錬金術の基本は等価交換」って言ってたと思うんだけど、ルルとパブロンで錬成したキメラって、ふつうに考えるとめちゃめちゃ弱そうだ。
           ルルもパブロンも薬局でほいほい手に入るありふれた風邪薬で、かつ個人的には体調が悪い時にこれらの薬を飲んでてきめんに良くなったことがあるかといえば全くそんなことはなく、正直単なる気休め程度の威力しかないと思っている。
           だが、どうだろう。この歌の「獣」は、その素材にかかわらず、異様に禍々しい空気をまとってはいないか。
           反キリスト的、冒涜的なイメージをもつ「獣」という言葉選びのせいでもあるだろうが、それだけとも思えない。
           ここにあるのは、姿が見えない化け物が、固有名詞の力で一瞬だけ具現化されるような不気味さだ。しかもその化け物は、大量生産の製品であふれたわれわれの生活の中に潜んでいる。

           どうにも、「ルルとパブロン」というモチーフの軽さが、その禍々しさの源泉、この歌の暴力性を担う凶器に思えてならない。
           薬、というのは使い方によっては毒にも転じる。すべての薬は病とたたかい苦痛をいやす善の顔の裏に、危険な道具としての一面を必然的に隠している。それはルルもパブロンも例外ではない。
           だが、読者は「ルルとパブロン」に一瞬油断する。その軽さと具体性に油断する。軽さは“無”の、薬は毒すなわち“死”のすぐそばにあることに気づかずに。
           笑いの基本は緊張と緩和、と言われるが、それはホラーの基本にもそのまま適用できる。きたるべき恐怖への緊張を、間合いをずらして緩和させた瞬間こそ、最大の恐怖となりえる一瞬だ。
           その緩和に当たる部分が、「ルルとパブロン」である。
          「存在しない弟」に対峙させられるはめになった読者が、「ルルとパブロン」で一瞬油断する。だが、その油断した相手は、じつは危険な「獣」なのだと直後に明かされる。
           その瞬間、「ルルとパブロン」こそが、この歌の“無”と“死”を凝集する凶器であったのだと読者は本能的に気づくが、そのころにはもうこの獣に丸のみされた後である。
           西崎憲=フラワーしげるが、この理不尽ともいえる暴力性を表す方法として、強固で破壊しがいのある定型をもつ短歌という形式を選んだのは必然だと思う。
           そしてその暴力性は、読者である自分の中にあった固定観念的な短歌像をも、木っ端みじんに破壊してくれたのだった。

          外野の短歌中継:第1回 表面に〈さとなか歯科〉と刻まれて水星軌道を漂うやかん

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             短歌を始めて4カ月経ち、課題も出てきた。
             たとえば自分の中で、「いい短歌」の基準がちゃんと形作られていないんじゃないか、と思うようになってきた。
             それはすなわち、好きな短歌のどこがいいのか、自分の中ではっきり言葉にできていないということだし、短歌をちゃんと読み込めていないということでもある。
             実際、誰かの歌集を読んでいても、一首一首ちゃんと読もうとしていつまで経っても読み終わらなかったり、逆にいったん最後まで読み終えようとしてどうにも流し読みになってしまったりする。
             それならいっそいろんな歌をざああっと読みあさり、その中で気になったひとつの歌を自分なりにごりごり掘り下げて読み込むのがいいんじゃないだろうか。
             と思ったので、ここで勝手に連載のつもりでその結果を書いていこうと思う。
             これを書いている今、ちょうどテレビでは広島カープ対横浜ベイスターズのゲームを放映している。球場でビールをあおりながら素人野球論をぶつおっさんのごとく書いていくつもりなので、タイトルはとりあえず『外野の短歌中継』としておこう。

             


             第1回、どの歌にするか迷ったけど、短歌を読み始めたころすぐにしっくりきた笹井宏之の、一番好きな歌にすることにした。

             表面に〈さとなか歯科〉と刻まれて水星軌道を漂うやかん / 笹井宏之「くらげ発電」(『ひとさらい』所収)

             描かれている情景を想像すると、空耳アワーの映像を音声なしで見ているような気分になる。一見あほくさい歌だ。
             けど、考えてみると色々面白い要素が隠されていると思う。
             まず、どうやら自分は言葉の跳躍力を感じる歌に弱いらしいのだが、この歌はその点ずいぶんな距離を跳んでいる。むしろ飛んでいる。何しろ水星だ。
             いきなり水星軌道にテレポートするこの飛躍を支えているのが、〈さとなか歯科〉という固有名詞だと思う。
             笹井の家の近所に実際にあったかは知る由もないが、〈さとなか歯科〉はいかにもその辺にありそうな名前だ。
             もしこれが〈さとなか歯科〉じゃなくて非日常的な名前だったとしたら、「水星軌道」という強い言葉と打ち消し合ってしまうだろうし、「身近なところからとんでもないところに飛ばされた」というギャップの衝撃が小さくなっていたと思う。
            〈さとなか歯科〉というありふれているけど具体的な、濁点の入らないするっとした語感の名前によって読者の視点をひきつけたうえで、一気に水星軌道までふっ飛ばす。
             この言葉選びが、読者の目をまず卑近なところに貼りつける接着剤であり、水星軌道へのはるかな距離を測るためのスタート地点であり、それを瞬時に縮めることで生まれるダイナミクスの原動力となっている。

             で、「表面に〈さとなか歯科〉と刻まれ」た何が「水星軌道を漂」っているのか。
             言うまでもないが言う。やかんである。
             やかん。今これを書いている自分の左1メートルほどの位置にまさしくやかんが存在する。
             宇宙空間で目の当たりにするはずがない、日常の匂いがやたらと強いものが唐突に現れることで、読者の視覚は1億5000万キロ先の水星軌道に取り残されたまま、意識だけが強制的に半径1メートルへと引き戻されることとなる。
             VRに没入して仮想宇宙旅行を楽しんでいたところに、母親の「ごはんよー」の声が響いて我に返るようなものだろうか。
             たった32字の間で瞬時に、これほど異常な距離を往復させられる歌もそうそうない。
             そしてこの短歌が面白いのは、単に読み手が長大な距離を行って帰ってくるだけじゃなくて、行ってガッカリして帰ってくるところだと思う。
             だってやかんだよ。水星軌道くんだりまで飛んできて、やかんだよ。
             海外旅行先で地元の人に一番うまい店はどこか聞いて、わくわくしながら行ってみたらとんこつラーメン屋だった、っていうタイプのがっかり感だ。
             でもそういうがっかりイベントはたいてい、後からその旅を振り返ってみると真っ先に、一番笑えた思い出としてよみがえってくるものじゃないだろうか。
             そういう脱力感をともなう悔しさがすごくいい。

             と、いち読者としてはけらけら笑いながら読んでいたこの歌だが、作者からすればそこまでなまやさしいものではなかったのかもしれない。
             笹井宏之は、重度の身体表現性障害を患ってほぼ寝たきりの生活だったという。
             この歌を収録した第一歌集『ひとさらい』のあとがきで彼は、「短歌をかくことで、ぼくは遠い異国を旅し、知らない音楽を聴き、どこにも存在しない風景を眺めることができます。(中略)短歌は道であり、扉であり、ぼくとその周囲を異化する鍵です」と語っている。
             この歌は、笹井が眺めた「どこにも存在しない風景」の歌だ。
             笹井が、自分の周囲、自分の半径1メートルにあっただろうやかんを、短歌という鍵を用いて異化したことで生まれた風景といってもいい。
             冒頭で、さとなか歯科という名前について、「読者の目をまず卑近なところに貼りつける接着剤であり、水星軌道へのはるかな距離を測るためのスタート地点であり、それを瞬時に縮めることで生まれるダイナミクスの原動力」と書いた。
             この跳躍力は、読者だけではなく、この歌を作った笹井自身を、はるかな水星軌道まで飛ばすために生み出されたものだったんじゃないだろうか。
             いつも横たわるベッドの脇にしばしば置かれる、歯科の名前が刻まれたやかんがあったとして、そのレトロなUFOめいた丸みに笹井は1億5000キロ離れたところにある惑星を、存在しない風景への扉を幻視したのかもしれない。

             そう考えると少し気になることがある。
             この歌はなんで“帰ってくる”んだろうか。
             安直な改作だが、たとえばもし、

            表面に〈さとなか歯科〉と刻まれたやかんが漂う水星軌道

             だったとしたら、やかんはスリングショットのごとくびいんと水星まで弾き飛ばされて軌道を回り続け、永遠に帰ってこない。
             歌としての出来はやっぱり元の方がいい。やかんを前に持ってくると、さとなか歯科とやかんがあっさりくっついてしまい、さとなか歯科→水星軌道→やかんのダイナミクスが失われてしまう。
             という点はもちろん前提としてあるけれど、自分が笹井宏之だったらそっちを選べただろうか。
             苦しみに満ちた体を抜け出して、そのまんま宇宙のかなたへ飛んでいって、水星軌道を永遠に回り続ける方がいい、と考えてしまうんじゃないか。
             でも笹井はそうせずに、やかんを後ろに据えて“帰って”きた。
             そこに見える作為は、単なる逃避の手段として短歌を使いはしないという姿勢の表れじゃないだろうか。
             それに、自己憐憫に陥らず冷静に己と短歌を見つめる目と、逃避の感覚を脱力感で包み込むユーモアこそが、この歌にこめられた願望の切実さを際立たせているんじゃないかと思う。

            短歌こわい

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               短歌を始めて2ヶ月経つ。
               かなり濃密な2ヶ月だった。プライベートでも超ビッグイベントがあったのと相まって、すでに1年生きたような心持ちである。
               これを書いている時点で、Twitterに流した短歌は94首あった。アップしていないものも多少ある。極度に飽きっぽい自分にしては、ずいぶんまともに続いている。今のところ枯れる気配もない。
               ただ、始めた直後と比べて、少しずつ意識が変わりつつある。
               短歌に「恐ろしさ」を感じるようになってきたのだ。

               歌集や歌論などを少しずつ読み始めてうすうすわかってきたのは、短歌は絶対的に「私」が出発点となること、そしてそれに嘘をつけないということだった。
               それは別に自分の生活そのものをリアリスティックに歌わなければいけないということではなく、そのときの「私」の心情、環境、価値観、その他「私」を構成しその歌を生み出した土壌を偽ってはならない、ということらしい。
               小説とはやはりそこが大きく違う。
               小説はむしろ、嘘をつかなければならない。「私」を物語という嘘、ノイズで歪めなければならない。その歪み、迂回こそが小説の魅力だ。その上で、ノイズまみれで見えなくなった「私」の断片が物語のすきまからこぼれていく。
               短歌は、その物語という嘘が向いていない表現形式だ。「私」というものをひとさじ切り取るにあたって、ノイズが混じっていたらそれは「私」ではなく単なるノイズになってしまう。
               もともと自己韜晦癖が強いほうだが、短歌はそんなものを許してはくれない。おまえの断片を、おまえが世界をどう見ているかをここに見せてみろ、と迫ってくる。
               裸で寒空の下に放り出されるような心細さだ。隠れる場所などない。まったくもって恐ろしいもんである。
               でも、やってみるとそれが意外にも心地よかったりするのが不思議だ。

               それに、今短歌をやることの大きな意義として、「私」というものの捉え方が今ちょうど変化しつつある時代である、ということを思う。
              「私」という存在が自分自身とイコールだった時代から、前衛短歌の時代を経て「私」を虚構化する動きが現れたりしたそうなのだけど、今はインターネットの普及などによってそもそもその「私」が虚構化どころかあらゆる形で分裂・偏在しているようにも思えて、だからこそそれを短歌として抽出するのが面白い。

               しかしこれから、どういう形で短歌を発表していくのがいいのかは未だによくわからない。
               新聞や雑誌に投稿してみたり、結社に入って歌会に顔を出したりしている自分がどうにも想像がつかない。
               というか、始めたのも遅く他ジャンルから流れてきた自分は、最終的に「短歌の人」になれないような気がしている。
               当分はこのままネット上でひたすら作歌していくことになるんだろうけども、自分のレベルが上がっているのか、いい歌を作れているのかが正直よくわからなくて、それがたまにわびしい。
               Twitterでふぁぼられるのはもちろんとても嬉しいんだけど、気に入られる短歌のタイプもある程度かたよっているように思えるので、「ふぁぼられやすい短歌」に流れたくないという気持ちもけっこう強くなってきている。
               ただ、短歌タグをまとめたTwitterのログをつぶやいたときに、おれが短歌を始めるきっかけとなった『桜前線開架宣言』の山田航さんがお気に入りにいれてくれたときは、とても嬉しかった。少しだけあの本に恩返しができているようで。
               変な言い方だけども、短歌には「恩」がある、という気持ちが強い。今後もその恩を受け続け、同時並行で恩返しをし続けていければいいなと思う。

              高浜寛と幻

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                  地元の本屋にふらりと寄ったら高浜寛先生の新刊『ニュクスの角灯 戮斑司埆検SAD GiRL』の両方が置いてあったので速攻で購入した。
                 2冊ともリイド社からの同時刊行。最近のリイド社はトーチはもちろんリイドカフェで桜壱バーゲン・中川ホメオパシー・サガノヘルマー各先生などを起用したりと、かなり攻めまくっていてかっこいい。
                 こういう活動にはちゃんとお金を出して、せめてもの一助になりたいところである。 

                 話を戻すが高浜作品は、主なところはほぼ読んではいるけれど、向き合うのにけっこう覚悟がいるものがいくつかある。そして『SAD GiRL』の表題作はこれまでの作品でも過酷なほうだ。
                 一方、連載長編である『ニュクス』は、ほぼ全編通して明るい雰囲気に満ちている。まず、話を『ニュクス』の方からはじめよう。
                 舞台はパリが万博で沸いている頃の、明治期の日本。道具の持ち主の過去と未来が見えるという神通力をもった女の子・美世が、船来品を扱う道具屋で働き始めるというストーリーだ。
                 なんの取り柄もないと言われていた美世が、文字を覚え、チョコレートやミシンや蓄音機など日本に初めて持ち込まれるものに触れ、未知の世界に飛び込んでいく。 
                 世界のすべてが上昇気流に包まれているような、新しい希望にあふれた物語だ。とにかく美世ちゃんがかわいい。ここまでストレートにかわいげのある主人公は高浜作品ではあんまり見たことがない、といっては失礼か。 
                 でも、重要なのはオープニングだと思う。この作品の1ページ目に描かれているのは、1944年の熊本で、防空壕で空襲におびえる祖母と孫だ。その祖母が、「世界が一番素敵だった頃のお話」として回想するのが、この明治時代の物語なのだ。 
                 作中で、道具屋の主人が人を集めて万博など海外の様子を幻灯機で映し出す場面がある。美世は夢中でその様子に見入り、世界で何が起きているかをもっと知りたい、と思う。連載が進むにつれ、きっと美世はその世界の広さを知っていくのだろう。
                 けれども、すでに我々読者は1944年に空爆におびえる、衰えた美世の姿を見ているのだ。そのあとどんなに素敵な冒険を経たとしても、美世の未来は必ずそこを通るのを読者は知っている。 
                 この『ニュクスの角灯』は、苦難の中にある美世が見ている、幻灯機のまぶしい虚像でもある。幻を見なければならない切実さが、作品の下に通底音として流れ続けている。 
                 ほかの高浜作品にも、幻をめぐるかなしみは描かれている。たとえば過去の名作『凪渡り』もそうだ。ひなびた港町で、年に一度東京から訪れる男との生活に焦がれつつ、いざその生活が近づいてくると自らすべてを壊してしまう女。それを通してたちあらわれる、幻にあこがれることでしか生きていけないかなしみが胸を刺す。
                 
                『SAD GiRL』の表題作もある種、この幻をめぐる作品だが、その切実さを反転させたように思える。 
                 睡眠薬過剰摂取で搬送されたあと、アル中の夫のもとから失踪した女が、それはもうびっくりするくらいの勢いで転落していくさまを描いたこの作品は、主人公が逃げ道を失っていくさまが酸素が薄くなっていくようにじりじり描かれていて、なかなかにつらい(そして困ったことにやっぱり面白い)。 
                 出てくる人のことごとくが、間違った関係性や支え(薬やら新興宗教やら)に寄りかかって、倒れたり他の人を巻き込んだりしている。その「間違ったもの」は一種のフィクションと言い換えてしまうこともできるだろう。
                 でも、話の展開上詳しくは書けないけども、この作品にはフィクション=幻のもたらす希望がある。
                 つらい幻から醒めて見つめた現実のところどころに、過酷な運命への落とし穴はやっぱり口を開けているんだけれど、それでも生きていくのだという意志がこの作品にはある。 
                 帯に、作中のすばらしい言葉が引用されている。
                「生きていこう、まるで挫折したことがないかのように」 
                 絶望の中で希望という残酷な幻にすがらなければいけない時もある。けれども、消えない挫折や絶望を包み込んでしまえるのもまた幻なのだ。 
                『SAD GiRL』の収録作に、『ロング・グッド・バイ』という短編がある。病院に残る男の子と退院する女の子の短い話だが、これは若くして亡くなった著者の友人に捧げられている。かなしみをフィクションという煙で天に昇らせて、残された者はどうにか生きていく。 
                 それができるのがフィクションの力であり、それを寄り添うように語れるのが高浜寛の作品の力なんだと思う。

                『桜前線開架宣言』と、いきなり短歌を詠みはじめた理由

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                   Twitterを見てくれてる方はお気づきかもしれないが、年明けから不意に短歌を始めてしまった。
                   小説を書け、と言われたら平に謝るほかない。でも短歌をやるのは小説を書くために必要な回り道である気もしている。
                   外れていた片輪がようやく見つかったような気すらしている。

                   直接的なきっかけは、昨年末に出た山田航さんの『桜前線開架宣言』という本だ。
                   これは自らも歌人である山田さんが、70年代以降の生まれの歌人40人を集めて、その論評と歌をまとめたアンソロジー。
                   彼のブログは以前からたまに見ていて、この本の原型となった「現代歌人ファイル」も斜め読みしてはいたのだけど、改めて本の形で読んだらずっぱりとはまってしまった。
                   じつに熱い本なのだ。あとがきから引用する。
                  「『短歌を変えてやりたい』って思ってます。真剣に。短歌が少数の人にしか読まれないって、どう考えてもおかしいじゃないですか。だって商業出版される小説の九割は、自費出版の歌集よりつまんないですよ。ぼくは本気でそう思っていますから。」
                   2冊商業出版させてもらった人間が感銘を受けていい文章なのかわからないが、少なくともこう認めざるを得ない。
                   実際、この本で紹介されている短歌は、へたな商業小説よりも格段に面白い。

                   例えばへんてこな小説を好む人には、石川美南氏の以下のような作品は奇想掌編を読む感覚で入っていけるはずだ。
                  <夜になれば移動する木々(まづは根を)(つづいて幹を)国境へと>
                   横山未来子氏のこの歌なんかもう、五感を拡張するようなあまりに鮮やかな世界の保存のしかたにうなった。
                  <はりはりとセロファンは鳴り花束の多く行きかふ街に風吹く>
                   今の日本の日常が乗っかっているものの気味悪さを切り取ったものでは、岡野大嗣氏のこれも秀逸。
                  <白というよりもホワイト的な身のイカの握りが廻っています>

                   それにその歌人の特徴を、恐れずに“断言”している山田さんの論評がこちらを否応なく引き込む。
                   分析の説得力もさることながら、覚悟をもってその歌を押し出そうとしているその姿勢にぐっとくる。
                   この本を読み終わる頃にはきっと、ここに掲載されている人の歌集をどれか手に入れてみようか、というくらいの気持ちになっていると思う。
                   本当に面白い本なのでぜひ手に取ってみてください。
                  http://sayusha.com/catalog/books/literature/p=9784865281330c0095
                   

                   で、自分の場合、そこをちょっと通り越して、うっかり自分で短歌を詠みはじめてしまったのだった。
                   なぜか。
                   ここからしばらく自分語りをするのでご注意ください。

                   去年の頭、おれは一度商業小説家として死んでいる。
                  一昨年の春ごろだったか、遅れに遅れつつもなんとか仕上げた『まほうびんぼう』続編がお蔵に入る羽目になった。理由はいくつかあるけれど、一番大きいのは遅れに遅れたせいである。
                   その代わりに別のものを急いで作ろう、という提案を受けて、ガガッとプロット立ててガガッと一度は書き上げた。んで、一昨年末から昨年頭にかけて、さらにもう一段クオリティを上げるべく改稿していたのだけども。
                   自分には、悪い意味で完璧主義的なところがある(あんな作品を書いていてもだ!)のだが、この時、それが一番悪い形で出てしまった。
                   直しているうちに、そのクオリティのアレっぷりに嫌気がさして、今度は自らお蔵入りにしてしまったのだった。
                   書かれない名作より書かれた駄作、というのが物書きの不文律だと頭ではわかっている。
                   だが、実際に(自分内判定での)駄作を書いてしまった、というのは想像以上にダメージが大きかった。あれは確かに駄作だったのだ。
                   そこでいったん、依頼は途切れた。
                   前の本が出てから3年間本を出せず、その後の予定もなくなったわけだ。
                   それからというもの、まったく小説が書けなくなってしまった。
                   プロットを立てようと思っても形にならずに雲散霧消していく。
                   かろうじて形になりそうなものも、「そんなクオリティのものでいいのか?」と頭の中の別のやつが黒板消しで消していく。
                   潜んでいる何かに、形を与えて、繋ぎあわせて、この世に実体化させたいという気持ちはずっとくすぶっていたが、ただただくすぶり続けておれの精神に低温やけどのような鬱を残すばかりだった。
                   その間に実生活の方ではそれなりに色々なことがあり、小説を書くこと以外のすべてが川下りのように流れていった。

                   そんなこんなで「結局なんも書けなかった……」と迎えた年末に、この本を手に取り、まえがきの部分を読んで、おれは思わず目を見開いた。
                   山田さんは、小説や漫画や映画は苦手で、芸術の形式では一番音楽が好きだという話のあとで、こう書いていた。
                  「ぼくは本が嫌いなのではなくて、『物語』があるものが嫌いなだけなんだと気付いた」
                   またしても商業小説家としてどうかと思うことを書こう。
                   わかる。超わかる。めちゃめちゃわかる。
                   だってこの1年近く、おれは「物語が邪魔だ」と思い続けてきたのだから。

                   自らお蔵入りにした作品は、今思えば、ただひたすらシンプルなプロットだけでできているようなものだった。
                   とある架空のバンドの物語で、最初は大人数の群像短編劇として考えていたのだけども、時間的な制約もあり、シンプルな活劇に変更したのだった。
                   たぶん、それを完成させられなかったのには理由があるんだと思う。
                   どうにもそのプロットの直線的な整合性を取ることばかりに気を取られて、作品を面白くすることができずにいた。
                   物語(のプロットという側面)に、どうにもぐるぐる巻きに縛られていた。
                   でも一応おれにも小説家としての見栄がある。そんなことは思っていても口に出せなかった。それに、口に出すと自分の中の何かが終わりそうな気もして怖かった。
                   そんな折に、山田さんのその一節で、わりにあっさりと自分の思っていたことを代弁されてしまったのだった。
                   こういうのを魔が差したというんだろう。
                   読み終えた勢いで、おれは短歌らしきものをiPhoneのメモ帳に打ち込みはじめた。
                   感覚の孔が開く、という開放感を久しぶりに覚えた。
                   小説でうまく語れなかった物事が、物語のくびきを離れて、するすると指から流れ出てくる。
                   まず一瞬の反射からスタートする、その感触がいい。
                   小説は世界を大ナタで切って削って煮て焼いてと、じっくり調理するものだと思うけど、短歌はスプーンで世界の断片をすくいとるような感じだ。その塩梅が妙にしっくりきた。
                   その快感に頭が呆けたか、結局は思いついたものを「#短歌」というハッシュタグをつけてTwitterに放流してしまったのだった。
                   書いたものは以下にまとまっていて、今後も増えていくので、よかったら読んでみてください。
                  http://twilog.org/thunderheadhour/hashtags-%E7%9F%AD%E6%AD%8C

                   今までろくに短歌を読んだこともない人間がずいぶん危ないことをやっているな、と自分でも思う。
                   ただ、これを始めたおかげで、考えが変わったところもあった。
                   作るうえで「物語が邪魔」というものの出口ができた。そのおかげで、「物語が必要」なものの方の出口の、渋滞が緩和された気がするのだ。
                   元日、担当さんにだけは書こうと思っていた年賀状を書きあぐねていたところに、その担当さんからの年賀状が届いた。
                   手書きで、「小説は書いていますか」とあった。
                   今年は、たぶん、小説も何か書けると思います。

                   ちなみに頓挫したバンドの話は、短歌の連作として再生させることを検討中。
                  『まほうびんぼう』の、一冊分たまっている続編は、どうしましょうね。
                   同人誌作って文フリでも出るべきなのか、いまだに迷っている。

                  2015年ベストアルバム

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                     毎年ベストアルバムはツイッターにつぶやいていたんだけど、後々追いづらいので今年はブログに載せてみる。
                     ツイッターでは脊髄反射でばばっと印象を書いて流すばかりだったけど、改めてブログにひとまとまりの文章として書いてみると、いやあもう書けねえ書けねえ。
                     それがどういう音楽なのか、どう描写すればいいのか、理解するための知識も説明するためのツールもずいぶんと足りていないことに気づいた。
                     というわけで、結局のところパーソナルに語るしかないという結論に渋々ながらも落ち着いた次第であり、時々いきなりエモくなるがその点ご了承いただけると幸いであります。

                    10:Yo La Tengo『Stuff Like That There』

                     初期メンバーのデビット・シュラムを迎えて作られた、カバー曲がメインの落ち着いた一枚。
                     全体的にカントリー風のアコースティックな曲が多くて、休日の朝の陽ざしの中で聴いていたら、今死ぬのも幸せかもしれないと思った。
                     でもライブだと、その心地よさがさらに別の次元に突き抜けていた。
                     こないだ渋谷O-Eastに来日公演を見に行った時の編成は、アイラ:エレアコ弾き語りのみ、ジョージア:バスドラ・タム・ハイハット抜きのドラムセットでスティックもブラシとマレット、ジェームズ:ウッドベースというシンプルさで、上物の装飾的な音は全部デビットのギターが担当しているというもの。
                     テーブル越しに囁くような歌声、「叩く」よりは「触る」という動きの方が似合うドラミング。このアルバムの雰囲気をしっかり再現しているんだけど、あの数百人入るキャパの会場にしては恐ろしく音量を抑えていて、それでいて単なる音ではない「穏やかな緊張感」とでも言うしかない何かが、隙間だらけの空間を漂っていた。
                     彼らはマイペースに歩いているようで、いつの間にか知らない場所へたどり着いている。

                    9:Hiatus Kaiyote『Choose Your Weapon』

                     ロバート・グラスパーをきっかけに最先端のジャズ、一言で丸めるとJazz The New Chapter的な音を知った門外漢の耳にすっぽりと収まる、オーストラリア発のネオソウルバンドの2nd。
                     つくづく今年の来日時に見に行き損ねたのが悔やまれる、変幻自在のアンサンブル。
                     最初はナイ・パームの身軽な歌ばかりに耳が引き寄せられていたけども、よくよく聴くとドラムのビートのずらし方が気持ちいい。
                     毎回、聴くごとに別の箇所に耳が引っかかるのが快感。
                     しかしJTNC系の音をだいぶ聴き損ねているので来年はもうちょっとそのあたり強化したい。

                    8:Jaga Jazzist『Starfire』

                     ノルウェーの異能プログレッシブ音楽集団、5年ぶりのスタジオ新作。
                     いやあ、相も変わらずかっこいい……。
                     これまでのどっしりとした大河のような長尺曲の流れを汲みつつ、電子音の比重が若干増したせいかよりキャッチーになった印象。
                     タイトル曲聴いたときは『The Stix』の昂揚感がよみがえった。
                     日本盤ボーナストラックとして収録されている「Oban」のトッド・テリエRemixも秀逸。また日本来てくれないかなあ……。

                    7:星野源『Yellow Dancer』

                     イケメンで歌がうまくてカラッとエロいという福山雅治的鬼スペックに「根暗」という金棒が加わり文系紳士淑女皆殺し状態の星野さんの4th。
                     その存在自体に八つ当たり的な嫉妬を覚えるのはサブカルクソ野郎のたしなみであり、視界に入っても反射的に目をそらし続けてきたわけですが、近頃はぐんぐんビッグになってしまって否が応にも視界の隅っこにチラチラその姿が映りこんでくるのですよ。
                     で、魔が差してですね、うっかり聴いてみたらですね。
                     うん、ごめんなさい、めちゃくちゃよかったです……。
                     聴いた印象は祝祭的になったベニー・シングスというか。ソウルフルな根っこをとても都会的にアウトプットしてるんだけども、J-POPとしてのわかりやすい破壊力も備えているのがとてもいい。


                    6:The Go! Team『The Scene Between』

                     Go! Teamの持ち味を大雑把に分ければ「ごった煮感」と「メロディセンス」になると思うが、イアン・パートンがひとりで取り仕切った今作は、ニンジャたちの不在により薄れた前者に元々振り分けられてたパラメータを後者に全振りしたような、実にポップな歌ものアルバム。
                     両者が恐ろしく高い次元で混ざり合っていた前作『Rolling Blackouts』と比較するのは酷か? そもそもカテゴリーが違う気がする。
                     ガツンと衝撃を与えるタイプの作品ではないけれども、このアルバムを聴いている間じゅう、脳みそに快楽物質がだばだば分泌されていた。
                     インディポップだのシューゲイザーだのが骨の髄までしみこんでいるので、こういう音にはもう脊髄反射でよだれが止まらんのです。

                    5:3776『3776を聴かない理由があるとすれば』
                    http://namarecord.com/
                    (上記リンクに試聴があります。)
                     今年一番びっくりしたアルバムはこれだなあ……。
                     まずとんでもないのはそのバラエティに富んだ楽曲のクオリティだけども、アイドルのアルバムなのに音楽的にムチャクチャやっている、ということ自体はもはやこのご時世驚くべきことじゃない。
                     すごいのは「富士山ご当地アイドルが歌う富士登山疑似体験アルバム」というトンチキなコンセプトが完全に表現され切っていること。
                     アルバム収録時間は全20曲3776秒!しかも曲と曲の間に挟まれるインタールードでは、ひたすら富士山うんちくが語られる背後で、1秒1mずつ標高を読み上げる声が流れ続けているw。
                     そのユルいようで妙な緊迫感のある幕間が途切れた瞬間に、やたらアヴァンギャルドなポップソングが飛んでくるからさっぱり油断できない。
                     「ご当地」と「アイドル」と「変な曲」、一歩間違えると硫化水素が発生するこの組み合わせをこの稀有なコンセプトアルバムにまとめ上げたのはもはや偉業。

                    4:POLTA『Sad Communication』

                     日本のギターロック(ポップ?)で今年一番しっくりきたのがPOLTAの1stだった。
                     三十路を迎えて表面的にはわりと社交的にやっているんだけども、内実未だに人との距離感のとり方が全くわからない根暗にとっては、ものすごく同族の匂いがする人たちがこんなに溌剌としたアルバムを出してくれたことがとても眩しい。
                     音作りは余計な小細工のないとてもシンプルなものなんだけど、そのシンプルさに耐えうる曲の強さ。
                     まずキャッチーなふくだ曲でガツンとやられて、聴いてくうちにじわじわと抒情的な尾苗曲が沁みてくる。
                     インタビューなどを読んでみると、ギターボーカルの尾苗さんとベースのふくださん、お互いソングライターとして露骨に対抗意識バリバリですごく面白いんだけど、レコ発ライブを観に行ったら何ともいえずいいチーム感があって、なんだか悟空とベジータのように見えました。

                    3:D'Angelo and the Vanguard『Black Messiah』
                    (公式の動画がないのでYouTubeはナシで。)
                     ……リリース自体は去年末だったけど、国内盤出たの今年だし、入れちゃおう。
                     ブラックミュージックを聴かないわけではないのだけど、これまで好きになったものはいわゆるフリーソウル系のような、「黒さ」が薄いものばかりだった。
                     泥臭いファンクも聴いたは聴いたが、どうにもそのカッコよさが皮膚感覚で沁みてこないところは否めず、たぶんおれには一生ブラックミュージックがわからんのだろうなーと一種の見切りをつけつつあった。
                     そんな不感症の自分の耳を開発してくれたのがディアンジェロだった。
                     とっぷりと濃く黒いこのリズムワークが、なんだか妙に体になじむ。
                     何よりピノ・パラティーノのベースが気持ち良すぎ。血流のような音だ。

                    2:Skylar Spence『Prom King』

                     ダンスミュージックの中でもピンとくるものとさっぱりこないものがあって、最近何がそこを分けているのか少しわかってきた。
                     どうやらおれは「盛り上がること」をあまり求めていないらしい。EDMやグイグイ四つ打ちでアゲまくるハウスなど、みんなで盛り上がることに合目的化したダンスミュージックがあんまり好きになれないのはそこだ。
                     じゃあその代わりに何を求めているのか?
                     思わず体が揺れてしまうビート、きらきらしたシンセ、グッドメロディの多幸感。
                     それがあれば最高だ。だけども最後の一押しに、絶対に必要なものがある。
                     孤独を許してくれること。
                     ひとりだけで、部屋でヘッドホンをひっかぶってノッていてもOK、と思わせてくれるような音。
                     これは完全に主観的な基準だし、同じものを聴いても他の人は全くそういう音だと思わないかもしれない。
                     でもこのアルバムはなぜだか、自分にとって、そういう意味でも完璧なダンスミュージックだったのだ。

                    1:Lantern Parade『魔法がとけたあと』

                     『夏の一部始終』以来、久しぶりにバンド編成でリリースされた最新作。
                     発売前に目黒で見たライブで、タイトル曲を清水さんが歌った瞬間に、このアルバムが年間ベストになることはほとんど決まっていたように思う。
                     で、聴いてみたら、やっぱりそうなった。
                     曲も、歌詞も、歌声も、何もかもが素晴らしいんだもの。冬のわずかな晴れ間のような一枚。

                    岡田利規『God Bless Baseball』を観てきた

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                       昨日は池袋のあうるすぽっとに岡田利規『God Bless Baseball』を観に行ってきた。
                       先日ブログに書いたトークイベントの主題でもあった劇なので、予習は充分。
                       野球のルールすら全く知らない日本語話者と韓国語話者の女の子、野球が嫌いだけど野球に詳しい男、不意に現れてひたすらイチローのバッティングフォームのまねをする男。
                       その4人が現れる舞台上には縮小された野球のダイヤモンド、スコアボードを模した字幕表示モニター、そして舞台上に君臨する傘を裏側から見たような謎のオブジェ。
                       舞台に再現されたいびつな野球を通して、日本と韓国とアメリカが浮かび上がる面白い劇だった。
                       ただし野球ファンは複雑な気持ちになるかもしれないw。
                       公演は11/29までだけど、『新潮』の12月号にも掲載されているので興味のある方はそちらを。
                       以下ネタバレ全開で感想を書くのでご注意ください。
                       ちなみに前提として、自分は岡田氏の作品に触れるのは初めてで、演劇も見なれていないので、何か見当はずれなところがあったらお教えください。
                      続きを読む >>

                      本当の嘘つきは自分が嘘をついているという自覚がないそうです

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                         アラサーちゃんに関する騒動を見ていてふと、学生時代にバンドをやっていた頃のことを思い出した。

                         そのときおれはちょっとだけ作曲をやっていた。
                         といっても音楽理論も知らない芋っ子ギター少年であったおれは、ギターをじゃかじゃか弾きながら気持ちのいいコード進行を探し、後付けでメロディをくっつける、というやり方でしか曲を作れなかった。
                         ただあるとき、いきなり頭の中にかなりフックの強いメロディが降りてきたことがある。
                         ほんの10秒くらいの短いフレーズだけど、堂々と曲の骨格になりそうなもので、そのとき「あれ、これひょっとして名曲じゃない? おれすごくね?」とニヤけた記憶がある。
                         でも、なんだかんだそのメロディを一曲に仕立て上げることまではしなかった。
                         自分でも、コードからじゃなくていきなりメロディが降ってきたことを、無意識に妙だと感じていたのかもしれない。

                         そのフレーズがFoo Fightersの『This is a Call』のAメロそのまんまだったことに気づいたのはその数年後のことだった。

                         不思議なのは、このメロディが頭に浮かんだとき、おれは『This is a Call』という曲をおそらく聴いたことはあったにしろ全く認識してはいなかった、ということだった。
                         この曲を聴いたことがあるとしたら、練習の時に他のメンバーに聴かせてもらったか、たまたま街かどこかで耳に入った、というくらいだと思う。でもいつどういう形で聴いたか、はっきりした記憶は全くない。
                         この曲が冒頭を飾るFoo Fightersの1stは聴いていない。当時も今もこのアルバムは持っていないし、レンタル屋で借りたこともないから、家で繰り返し聴いていたなんてことはあり得なかった。この頃はまだYouTubeもないからネット上で聴くのも無理だ。
                         ただ当時、Foo Fightersの2nd『The Colour and The Shape』はさんざん聴いていたので、どこかでこの曲を耳にしていた可能性は相当高い。「観てはいないけど目には入っている」みたいな状態に近いか。
                         つまり、おれはちらっと聴いた曲をいったん忘れ去り、その後ふと頭によみがえってきたのをオリジナルと勘違いして無意識にパクっていた、ということになる。

                         自分の意思とは関係なくパクってしまっている、というのはなかなかに恐ろしい。
                         目が覚めたら足元に死体があって自分の手が血まみれ、みたいな状態だ。
                         おれはやってないといくら言い張ろうが、状況証拠が揃っている。
                         これまで色々起こったパクリ騒動のうち何%かは、「自分がパクってしまったらしい」と認めたパターンがあるんじゃないかと想像している。
                         すでに世に出た自分の作品にも、そういう部分が人知れず存在するんじゃないか、とか考えだすとだんだん胃が痛くなってくるのでやめておくけど……。
                         基本的に自分の記憶を一切信頼していないので、常にそういう恐怖に駆られてはいる。

                         んで、自意識をネタにしたあるある系漫画じゃなおさら起こりやすいんじゃないだろうか、とかなんとか考えながら編集部の謝罪文を見たら意識的にやった風だったのでズコーと椅子から転げそうになったんですけどね。
                         ただこれ、『今日のゲイバー』自体は間違いなく読んだことはあるけど内容は忘れていて無意識にパクった、っていうのが真相だったら峰さん的にはさらにしんどい展開じゃないかとも思う。

                         余談だけどひとつだけ、この謝罪文を読んでモヤッとしたところがある。
                        「オマージュ的に当該作品を踏まえたうえで、さらに展開を加える形で4コマ化」という一節だ。
                         確か以前、とり・みきさんがこう言っていた。
                        「元ネタがバレたら困るのがパクリ、バレなきゃ困るのがオマージュ」。
                         このケースでは明らかに元ネタがばれて困っているわけで、なんでもかんでもオマージュって言っておけばいいってもんではないですね。

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                          伊藤螺子 (12/11)
                        • 本当の嘘つきは自分が嘘をついているという自覚がないそうです
                          調布在住 (12/05)
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